太田述正コラム#13832(2023.11.5)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その32)>(2024.1.31公開)

「・・・<例えば、>酸棗(さんぞう)県令の劉熊(りゅうゆう)は、・・・経済力を持つ豪族から、徭役に従事しない代わりに多くの・・・銭を出させ、それを徭役を負担する貧民に与えることで、肉体労働[徭役]を避けたい豪族層と、労働をして銭を稼ぎたい貧民の双方の利害を調整した・・・。・・・
 <(ちなみに、>後漢では・・・23歳以上の男子に・・・兵役の義務<が課され、>・・・徭役[労働力を提供する力役。ただ働き]のようになっていた。
 また、・・・男女15歳以上は・・・更役(こうえき)[小さな徭役]<が課され、>・・・前漢後期以降は更賦<(注98)>として300銭を徴収することが多くなっていた。<)>・・・

 (注98)更賦のBaidu百科
https://baike.baidu.hk/item/%E6%9B%B4%E8%B3%A6/843644
の一節に「更賦是一種代役税」、とあったが、Google翻訳すると、日本語では
 更賦是一種代役税。→倹約税はサービス税の一種です。
 英語では、
 更賦是一種代役税。→Gengfu is a kind of service tax.
 とされてしまい、英語で、
 代役→substitute
 で、ようやく目的を達した。

⇒「更賦」の意味は、文脈から読み取ることはできたものの、念のために調べようとしたところ、「更賦」を収録した日本語の辞/事典類をネット上で発見できず、「注98」のように、漢語のBaidu百科には出て来て、その解説中に出てくる「代役税」でこれまた用は足りたものの、念のため、「代役税」をGoogle翻訳してみると、全くモノの役に立ちません。
 前々から、漢語のGoogle翻訳が日本語でも英語でも使い物にならないことに大変困っています。(太田)

 これは、すべての民を平等に「伍」<(注99)>に組織し、そこに等しく税を課すという、秦の始皇帝が理想とした中央集権的な個別人身的支配ではない。

 (注99)「古く<支那>で、五戸を一組とした行政上の単位。〔春秋左伝‐襄公三〇年〕」
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8D-493441

 豪族と貧民の階層分化を容認し、それに応じて徴税の負担を調整する、これが儒教的な寛治なのである。・・・

⇒特定の県令の挿話が出てきたということは、寛治は後漢において全国一律的な法令に基づいて行われた法治ではなく、地方ごとに、そして、たまたまその地方を統治することになった役人の判断や匙加減でもって行われた人治であった、ということでしょうが、こんなやり方が、全国的、かつ、長期的にうまくいくはずがありません。
 また、兵役が事実上のただ働きになっていたということも深刻です。
 そんな基本的なところでカネをかけないのでは、兵達に碌に訓練も施さず、また、碌な武装もさせなかったと考えざるをえません。
 しかも、既に記したように、兵役についた人々を指揮統率する将校を教育訓練する仕組みが公私ともに存在していなかったようである、とくれば、後漢の軍事力が、量的にはともかく、質的にどれほど弱体な代物であったか、想像に難くありません。(太田)

 『詩経』の大雅蕩(たいがとう)には、「殷鑑 遠からず、夏后の世に在り(殷が鑑として己を照らして反省すべき手本は遠くない、前代の夏の世の末に桀(けつ)王が無道であったことにある)」という、歴史を鑑とする思想が記される。・・・
 だが、人道の鑑を描く儒教の経典に、近代的な意味での事実に基づく歴史、あるいは客観的に正しい歴史が描かれているのであろうか。・・・
 『漢書』は、もともと『史記』の『後伝』として編纂されたものである。
 ただし、班彪<(注100)>は、単に『史記』の続編を著述したのではない。」(189~190、199~201)

 (注100)はんぴょう(3~54年)。「王莽末期の動乱時代に甘粛省の天水地方に拠った隗囂(かいごう)に身をよせたとき,《王命論》を著して隗囂の天下統一の野望に水をさした。後漢王朝が創業されると,《史記》の体例と史観を批判しつつその続編となるべき《後伝》の執筆に専念<。>」
https://kotobank.jp/word/%E7%8F%AD%E5%BD%AA-607242
 「隗囂(かいごう、? – 33年)は、・・・新末後漢初の群雄の一人で、・・・公孫述と共に、光武帝(劉秀)の統一事業に立ちはだかった人物である。・・・
 若年時代は州郡で官吏を務めていたが、王莽の下で国師を務めた劉歆に登用され、その属官となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%97%E5%9B%82
 「隗囂は班彪に問うた。「周室がほろび、戦国時代になった。いまは戦国時代とおなじだ。天命をつぐのは、劉氏1人だけか」と。班彪は答えた。「周室の興廃と、漢室の興廃はちがう。周室は、諸侯に権限をあたえすぎて、ほろびた。漢室は、郡県の統治をきかせる。漢室は、成帝が外戚におされ、哀帝と平帝は短期だった。王莽に、皇位をぬすまれた。だが漢室は、宮廷がゴタゴタしただけで、百姓に危害していない。百姓は、漢室の復興をのぞむ」と。・・・
 隗囂はいう。「漢室の劉氏が、そんなに重要か。秦末、だれが漢室を知っていたか」と。班彪は『王命論』を記して、隗囂に反論した。・・・
 班彪はいう。「劉氏は、帝堯から火徳をつぐ。だから高帝は、韓信、英布、項梁、項籍におとるけれど、天下をとった。王莽や、今日の軍閥が、劉氏に代われるはずがない」と。・・・
 班彪はいう。「秦末、陳嬰の母は、世々まずしいので、自分の子が王になれないと、わきまえた(秦二世二年)。王陵の母は、劉氏が天下をとると考え、死んで王陵にわきまえさせた(高祖元年)。匹夫の母ですら、劉氏の天下を知っているのだ。隗囂も、わきまえろ」と。
 隗囂は、班彪をきかず。班彪は、河西ににげた。」
http://3guozhi.net/d/0291.html

(続く)