太田述正コラム#13836(2023.11.7)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その34)>(2024.2.2公開)
「・・・中国史上最初の「儒教国家」となった後漢<で>は、・・・自らは権力基盤を持たず皇帝権力の延長として権力を行使する宦官が、皇帝に代わって政権を掌握する正統性を持つ擬似権力である外戚を打倒することにより国政を掌握していく。
白虎観会議において儒教の経義により正統化されていた外戚とは異なり、宦官が政治に関与することは、儒教を身体化している後漢の官僚に容認できることではなかった。
儒教理念に基づき宦官への批判を展開した官僚は、宦官に操られた第11代の垣帝<(注102)>により、党人[悪い仲間]として禁錮され[党錮の禁]<(注103)>、党人の自律的秩序の中から、三国時代の知識人層である[名士]層が形成されていく。」(210)
(注102)かんてい(132~1168年。皇帝:146~168年)。「質帝が梁冀<(りょうき)>により毒殺された後、権勢保持のために梁冀とその妹の皇太后の梁妠によって反対を押しのけ擁立された。即位後は質帝の代と同様に梁冀の専権が続き、梁冀は妹の梁女瑩を桓帝の皇后に立て、一族から7封侯・3皇后・6貴人(妃の位)・2大将軍を輩出し、梁氏最盛期を現出した。梁冀は李固を殺害するなど、反対者に対する弾圧を強めた。
この専横に反発した桓帝は、宦官の単超らの助力を得て梁冀の邸宅を包囲して誅殺、一族もほぼ全員に当たる300名以上が粛清され、多くの者も免職となり、そのために朝廷が空になるほどだったと史書は伝えている。
梁冀粛清後に親政を始めると、功労者の単超を2万戸の侯に封じ、その他の宦官たちに対しても恩賞を与えた。梁冀の専横は排除したが、この政変により今度は宦官たちに権力が集中することとなる。宦官に養子を認め、財産相続を認めたことにより世襲貴族を志向する者も現れるに至った。この時期に権勢を誇った宦官に、魏の太祖曹操の祖父曹騰もいる。
宦官による政権掌握に不満を抱いた外戚・豪族勢力は、宦官を儒教的に穢れた存在として対抗。宦官を濁流、自らを清流と称しての政争が始まる。
・・・159年・・・、河南尹李膺<(りよう)>が宦官の犯罪を摘発しようとしたところ、逆に投獄される事件を契機に、宦官勢力は豪族たちを党人、徒党を組んで政治を乱す者と見做し弾圧を行った。李膺は後に許されて司隷校尉となり、宦官を恐れず摘発したことで名声を高める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
「曹騰<(そうとう。100~159年)は、>・・・息子を作れない宦官のため血の繋がりはないが、曹嵩<(そうすう)>(曹操の父)の養父。・・・曾孫の曹丕が皇帝となり魏を興したため、229年、明帝によって高皇帝、妻の呉氏も高皇后と追号された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E9%A8%B0
梁冀(りょうき。?~159年)。「順帝が死去し、2歳の劉炳(沖帝)が即位すると、梁冀の妹の梁妠が太后として摂政に即位することになったが、沖帝は翌年に死去した。大尉の李固は幼帝だと外戚が権勢を振るうのを恐れ、皇帝には年長の者を即位させるよう主張したが、結局梁冀達は8歳の劉纘(質帝)を即位させる。政治は完全に梁冀達が握り権勢を振るっており、それを不満に思った質帝は梁冀に「これは跋扈将軍なり」と言った。梁冀は質帝を幼いながらも聡明で御し難いと思い、毒殺した。次の皇帝選びになると、李固は清河王劉蒜<(りゅうさん)>を強く推薦するが、梁冀は強引に劉志(桓帝)を即位させると、李固を解任させて後に殺し、世間を失望させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%86%80
(注103)「後漢の和帝が外戚の竇憲<(刀剣)>らを排除するのに宦官を用いて以降、宦官の勢力が強くなるようになった。しかしこれら宦官の多くは自らの利権の追求に専念し、外戚が専横していた頃以上の汚職が蔓延するようになった。
こうした状況に対し、一部の士大夫(豪族)らは清流派と称し徒党を組み、宦官やそれに結びつく勢力を濁流派と名づけ公然と批判するようになった。この批判の背景には、宦官を一人前の人間として認めない儒教的な価値観や、従来士大夫がその選抜に強い影響力を持っていた「郷挙里選」における「孝廉」の推挙まで宦官の利権の対象となった事に対する反発が影響したと見られている。
この宦官と士大夫の対立は、宦官と外戚との間でたびたび行われた権力闘争ともかかわり深刻なものとなっていた。・・・
党錮の禁(とうこのきん)は、・・・宦官勢力に批判的な清流派士大夫(党人)らを宦官が弾圧したもので、その多くが禁錮刑(現代的な禁錮刑とは異なり、官職追放・出仕禁止をさす)に処された事からこの名で呼ばれる。党錮の禁は・・・166年・・・と・・・169年・・・の2回行われ、それぞれ第一次党錮の禁、第二次党錮の禁と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9A%E9%8C%AE%E3%81%AE%E7%A6%81
⇒著者は、「後漢では、章帝(在位75~88)以後、幼帝が多く、母の太后が政治を行うことが多かった。太后は大臣と直接には接触せず、宦官を仲介にたてたために、宦官は政治の機微に通ずる者が少なくなく、しだいに権力を握る者も出て、ついに外戚(がいせき)と勢力を争った。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%A6%E5%AE%98-48536
という背景に言及すべきでした。
ちなみに、「後漢、唐、明の3朝は宦官によって滅ぼされた」とされています。
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%A6%E5%AE%98-48536
日本に宦官制度が継受されなかったのは、基本的に日本は女性優位社会であり、宮廷でも、外廷においてすら、平安時代までは女官(女性官僚)が活躍しており、いわんや、内廷においてをやだった
https://book.asahi.com/article/11599185
からでしょうね。(太田)
(続く)