太田述正コラム#13840(2023.11.9)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その36)>(2024.2.4公開)
「・・・後漢の外戚は、再生産性を持つことが第一の特徴である。
たとえば、後漢末の霊帝期に権力を掌握した竇武<(とうぶ)>は、外戚として後漢で初めて権力を握った和帝の外戚竇憲の子孫である。・・・
また、第8代の順帝の外戚となった梁商は、かつて章帝の貴人[後宮の女官の名称で、地位は皇后に次ぐ]として和帝を生んだが罪を得て誅殺された梁貴人の子孫である。
なぜ、罪を得た外戚の子孫が、再び外戚の地位に就けたのであろうか。・・・
これは、後漢「儒教国家」の経義を定めた『白虎通』に基づく<ところの、>・・・「娶るに大国を先にす(娶る場合には大国より迎える)」という春秋の義<によ>る。
『後漢書』に注を付けた唐の李賢は、これを『春秋公羊伝』からの引用とするが、現行の『春秋公羊伝注疏』には、この文言は見えない。・・・
皇后として選ばれるべき「娶るに大国を先にす」という「春秋の義」に当てはまるものは、その家が「大国」でなければならない。
後漢において「大国」と見なされる王と諸侯のうち、王は皇帝の一族しか封建されず、その下の諸侯に封建されるものは外戚が多かった。
結果として、<例えば、>順帝が寵愛した4人の貴人のうち、もとの外戚であった梁氏が、かつて罪を得た家でありながらも選ばれることになる。
白虎観会議を主宰した章帝は、外戚の竇憲<(とうけん)>を寵愛していた。
『白虎通』に掲げられた「娶るに大国を先にす」という儒教理念が、たとえかつて罪を得た者であっても、再び外戚の地位に就けるような、外戚の再生産を支えているのである。
後漢の外戚は、前皇帝の嫡妻(てきさい)(正妻)の外戚が権力を掌握することを第二の特徴として持つ。・・・
前漢で権力を行使した外戚は、皇帝の生母の一族が多い。
実際に母子関係のある生母が皇太后として臨朝し、その一族が外戚として政治を掌握することは、むしろ自然の情に基づく。
ところが、後漢の外戚は、前皇帝の嫡妻の一族であった。・・・
生母やその一族は殺害されることも多かった。
皇后が常に男子を生めるとは限らないためである。
皇后[嫡妻]の一族が権力を行使できると定まっていれば、外戚の権力は安定する。・・・
『白虎通』<にこのようにある>・・・。
王者が臣下としないもの[王者不臣]は三つある。それは何か。二王の後・妻の父母・夷狄[異民族]である。
<まず、>「二王の後」を客として礼遇することは、中国の古典的国制に含まれる。
漢は、殷の血を引く孔子の子孫と周の子孫を「二王の後」と定め、それぞれを褒成侯<(注109)>・褒魯侯<(注110)>に封建していた。」(212、214~216)
(注109)「秦の始皇帝は九世の子孫の孔鮒を魯国文通君に封じた。前漢の高祖は孔鮒の弟の孔騰を奉祀君に封じた。
その後、儒教が前漢の国学となるとその宣揚のために元帝は十三世の子孫の孔覇に関内侯の爵位と褒成君の号を与え、哀帝は十四世の子孫の孔吉を殷紹嘉侯に封じた。平帝は1年に十六世の子孫の孔均を褒成侯に封じ、世襲とした。以後、後漢の明帝が十八世の子孫の孔損を褒亭侯に封じたのと安帝が十九世の子孫の孔曜を奉聖亭侯に封じたのを除けば、漢を通じて褒成侯の爵位が受け継がれた。
その後、三国時代の魏では宗聖侯、西晋・東晋・南朝宋では奉聖亭侯、北魏では崇聖侯、北斉では恭聖侯と改められた。北周のときに鄒国公に格上げされ、隋では文帝が鄒国公に封じたが、煬帝のときに紹聖侯に改められた。
唐では当初は褒聖侯に封じていたが、開元年間に孔子に文宣王の称号が贈られると、褒聖侯も公爵に格上げされ、文宣公と呼ばれるようになった。北宋の仁宗の・・・1055年・・・に文宣公は衍聖公に改められ、後代に受け継がれた。
清でも、孔子の嫡流を尊び、歴代の当主を衍聖公に封じた。順治帝は、・・・1645年・・・に孔子を「大成至聖文宣先師孔子」とし、康熙帝は大成殿に「万世の師表」と自ら書いた扁額を掲げた。雍正帝は、孔子の先祖五代にそれぞれ肇聖王・裕聖王・貽聖王・昌聖王・啓聖王の王位を追封している。乾隆帝は公主を72代衍聖公孔憲培の妻とするなど、歴代の衍聖公を尊んだ。光緒帝と西太后(慈禧皇太后)も衍聖公を尊び、76代衍聖公(孔令貽)も紫禁城の招かれている。西太后の60歳の祝いには、76代衍聖公はその母と共に北京に入ったが、西太后みずからが謁見をしている。
辛亥革命後に誕生した、孔徳成は優待条件で維持されていた清朝朝廷(宣統帝)より、77代衍聖公に封じられている。
1935年、国民政府は清朝の爵位を廃止し、衍聖公を大成至聖先師奉祀官と改めたが、依然として世襲とされている。2009年より孔垂長が在職。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8D%E8%81%96%E5%85%AC
(注110)’褒魯侯 is a hereditary title given by the 漢 Dynasty to the descendants of the 周公.
On the 元始元年 (1 A.D.)6月, the 8世孫 of 魯頃公<である公子寛>was named 褒魯侯, with a fief in 南陽平, with 食邑両千戸, responsible for sacrificing 周公. 公子寛 died soon after, and was called 「節」, and his title was inherited by his son, 公孫相如. In November of 元始元年,公孫相如 inherited the 褒魯侯 and changed his surname to 公孫 surname, and later changed to 姫 surname. Before the first year of 王莽’s founding (9AD), the title of 褒魯侯 was reduced to that of a 子爵. The succession is unclear since then.’(Google英訳後、固有名詞等を漢字表記した。(太田))
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%A4%92%E9%B2%81%E4%BE%AF
「頃公(けいこう)<(在位:BC279~BC256年)>は、魯の最後の君主。名は讎。文公の子で、文公の後を受けて魯国の君主となった。
頃公2年(紀元前278年)、秦が楚の首都の郢を陥落させ、楚の頃王は陳に東遷した。
頃公19年(紀元前261年)、楚が魯を討って徐州を奪った。
頃公24年(紀元前256年)、魯国は楚の考烈王のために滅ぼされ、頃公は下邑にうつされ、莒の地に魯君として封じられた。
考烈王14年(紀元前249年)、頃公は柯で死去し、魯国の祭祀は絶えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%83%E5%85%AC_(%E9%AD%AF)
⇒「殷の血を引く孔子」とはこれいかに?
孔子の「先祖は宋国(殷の子孫の封ぜられた国)の人」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2128
ではあるようですが・・。
著者の筆が滑ったのではないでしょうか。
また、「周の子孫」についても不正確甚だしいのであって、「周公旦の子孫」でなければなりません。
ちなみに、「孔子の生まれた魯(紀元前1055年 – 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする諸侯国で、周公旦は周王室の有力者で殷を滅ぼした武王の弟とされる。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、克殷直後の周を安定させたと伝えられている。・・・周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
と、周公旦と孔子との間には浅からぬ因縁があります。(太田)
(続く)