太田述正コラム#13842(2023.11.10)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その37)>(2024.2.5公開)
「『白虎通』の規定は、それを正統化したものである。
また、夷狄を臣下としない理由は、中国[漢民族]とは「俗」が異なり、礼により強化できないためである、と『白虎通』は、この後に理由を記述する。
いずれも穏当な主張と言えよう。
ところが、妻の父母、すなわち嫡妻である皇后の外戚を優遇することは、外戚の王莽に前漢を簒奪された後漢では、本来、防がなければならないことであった。
それにもかかわらず、・・・『白虎通』は、『春秋左氏伝』を典拠に、嫡妻の父母[嫡妻方の外戚]は、王者が「臣とせざる」ものであると位置づける。
着目すべきは、その理由にある。
嫡妻の父母が尊敬されるのは、嫡妻が宗廟において皇帝と一体化し、皇帝とともに、そして皇帝の死後は宗廟、すなわち皇帝家を無窮に伝える役割を担うが故に高い位置を得る、としているからである。・・・
後漢において嫡妻方の外戚が、皇室の断絶時には「定策禁中」[宮中で次の皇帝を誰にするか定める]し、皇帝の幼時に「臨朝」できた理由は、『白虎通』で正統化されていたからなのである。
このように、『白虎通』には、罪を得た外戚であっても、「大国」に準えられ、嫡妻である皇后に立てられれば、次の世代に皇太后となれる嫡妻権に基づき権力を行使できることが明記されていた。
後漢を衰退させた外戚は、儒教に守られていたのである。
このため儒教を学んだ官僚たちは、外戚の権力乱用を批判することはできても、外戚の政治関与そのものを批判することはできなかった。
したがって、皇太后の死後に蜂起して外戚を打倒したものは、儒教を学んだ官僚ではなく、宦官なのであった。・・・
川勝義雄<(注111)>は、後漢を衰退させた外戚と宦官を「濁流」勢力と一括して把握し、六朝貴族の源流となる「清流豪族」の敵役として、その対立面を強調した。
(注111)1922~1984年。三高、京大文卒、同大人文科学研究所助手、仏留、京大人文科学研究所教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%8B%9D%E7%BE%A9%E9%9B%84
しかし、両者を「濁流」と一括すること、さらには、それを「清流」に対する悪役とのみ位置づける二元論的な視座からは、後漢中期の政治過程を把握することはできず、曹操の台頭も理解できない。
曹操の祖父である曹騰は、・・・146・・・年に即位した桓帝の擁立に功績があった宦官<だが、>・・・たしかに、一方で・・・外戚の梁冀と結び、巨万の富を蓄えたので、「濁流」と名付け得る側面を持つことは否定できない。
しかし、・・・「濁流」であるはずの宦官の曹騰が、・・・文武兼備の将相を・・・六名<も>・・・高く評価し、抜擢していることを見逃すわけにはいかない。
かれら・・・は、いずれも儒教を学んだ、川勝説で言えば「清流」に属する人々である。・・・
石井仁<(注112)>は、張奐および种暠、そして种暠に推挙された皇甫規、橋玄が、いずれも度遼(どりょう)将軍に就いていることに注目する。
度遼将軍<(注113)>は、中国の対外防備の中核である西北辺境を統括する総司令官である。
(注113)「昭帝の・・・紀元前78年・・・、遼東の烏桓が反乱した際に中郎将の范明友が任命され、烏桓を討ったことに始まる。前漢においては范明友が解任された後は確認できない。
後漢の明帝の・・・65年・・・、降伏した南匈奴で二心を抱く者を監視し備えるために「行度遼将軍事」が置かれ、五原郡曼柏県に駐屯することとされた。安帝の・・・114年・・・には辺境に不安が多いことから正式に常設の官とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A6%E9%81%BC%E5%B0%86%E8%BB%8D
石井は、曹騰が意図して中国の西北を守る列将を推挙した結果、その人脈の中から軍事的天才の曹操が出現することを必然と捉える。
炯眼と言えよう。
かれら「西北列将」の中でも、ことに曹操を最初に高く評価した橋玄<(注114)>は、曹操の恩人であり、また理想でもあった。」(216~220)
(注114)109~183年。「橋玄は、洛陽<で>・・・無名の曹操の訪問を受けてその様子に感嘆し、「私は天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいなかった。君は善く自らを持せよ。私は老いた、願わくば妻子を託したいものだ」と語っている。このため曹操の名は知れ渡ることになった。・・・202年・・・、曹操が軍を率いて橋玄の墓の傍を通ったとき、人をやって太牢の儀礼でもって橋玄を祀り、自ら祭祀の文を奉げている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E7%8E%84
⇒この橋玄もそうですが、种暠(ちゅうこう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8D%E6%9A%A0
も、張奐(ちょうかん)も、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%A5%90 *
軍事を学んだ形跡がないのに、度遼将軍に任じられています。
(張奐の場合は、それ以前に、都尉という、郡の軍事担当官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%B0%89
に任じられていますが、それは51/52歳の時(*)です。
(なお、皇甫規(104~174年)については、36/37歳の時に西羌の反乱鎮圧に派遣されていますが、それまでの経歴が分かりませんでした。
https://www.weblio.jp/content/%E7%9A%87%E7%94%AB%E8%A6%8F
https://baike.baidu.hk/item/%E7%9A%87%E7%94%AB%E8%A6%8F/976125 )
曹騰自身も軍事の素養があったとは思えず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E9%A8%B0
果して、彼に、軍の指揮官を選ぶ眼力があったか、疑問です。(太田)
(続く)