太田述正コラム#13844(2023.11.11)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その38)>(2024.2.6公開)

「・・・後漢・・・において、郷挙里選で郎官となるものは、豪族を出自とする郡国の属吏である。・・・
 孝廉や賢良方正の推薦基準は、名称にも現れるように、いずれも儒教に置かれた。
 しかし、孝や廉といった儒教の徳目を郷挙里選の対象者が持っているか否かを試験によって判断することは難しい。
 そうしたとき、・・・たとえば・・・銭を拠出し、徭役に苦しむ貧民に銭を与えることに協力すれば、その人物が「廉」であることは端的に示される<し、豪族出身者であれば、そういったことが可能であった>。・・・
 <この制度>を宦官が破壊していくのである。・・・
 外戚も、請託を繰り返して郷挙里選を破壊した。・・・
 <しかし、>宦官の請託は、さらに露骨であった。・・・
 儒教を修めた官僚は、こうした行為を繰り返す宦官を仇敵として忌み嫌った。
 このため、それまでのように、皇帝権力の延長である宦官の存在を当然視し、その政治への関与をも容認する、という態度をとる儒教的官僚は、少数となっていく。・・・
 皇帝を背景とする宦官の権力行使への批判は、やがてそれが昂じて皇帝権力そのものに対する不信感へと増幅していく。
 それが・・・最終的に宦官の勝利に終わった<ところの、>・・・党錮の禁<(注103)>を惹き起こすことにな<ったのだ>。・・・
 党錮の禁は、宦官が自分たちの政治を批判する官僚を二度にわたって党人[悪い仲間]として禁錮した事件である。・・・
 党人は、・・・官僚となる道である郷挙里選を宦官によって閉ざされ、後漢の官僚への評価が低くなると、何を拠り所に郷里社会に力を振るうべきかを悩むことになる。
 こうしたなかで流行したものが、党人たちの人物評価である。
 豪族は、党人を支持し、党人から人物評価を受けることを後漢の官僚となるよりも尊重するに至る。・・・
 郭泰<(注115)>が形成した「名士」の人物評価は、豪族層の支持を得ることにより、腐敗した後漢の国家的な秩序に代わって、社会的な権威を持つことになった。

 (注115)128~169年。「代々貧賤の家柄だった。・・・洛陽に遊学し、賈彪と共に太学の冠とされた。当時河南尹だった李膺は郭泰を大いに奇とし、親善を結んだため、郭泰の名は洛陽を震わせることになった。郷里に帰る際には、士大夫や儒者達が黄河のほとりまで見送りに訪れ、車は数千両にもなった。郭泰はただ李膺だけと同船し、多くの見送り客が神仙を見るようにこれを望んだ。
 やがて司徒の黄瓊が招聘し、太常の趙典が有道に推挙したが、応じなかった。・・・
 党錮の禍によって名士達が多く被害を受けたが、郭泰と袁閎だけが禍を免れた。交際を絶って教授に専念し、弟子は1000人を数えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E6%B3%B0

 後漢の国家的な秩序は、官位の上下で示される。・・・
 <その官位>は、金で売買することが可能な、腐敗したものになっていた。
 これに対して、「名士」の自律的な秩序は、人物評価で表現される。
 ・・・著名な「名士」の人物評価を得ることは、名声を高め、「名士」層に参入するための最も有効な手段であった。
 人物評価で「許・郭」と並称され、郭泰の死後、その中心となったものが許劭<(注116)>(きょしょう)である。」(221~223、225、228)

 (注116)「若い頃は従兄と共に、月に一度に「月旦評」と呼ばれる人物評論会を開いていた(『後漢書』)。彼の影響力は絶大で、彼に称賛された者は出世し、称賛されなければ没落の道を辿ったといわれる(『太平御覧』)など、人物批評家として当時の一大家であった。現代においても、この許劭の故事に由来し、「月旦評」は人物の批評を意味するようになった。・・・
 その後、徐璆は彼を功曹として登用した。さらに曹操や楊彪など様々な人物が許劭を招聘しようとしたが、彼は全て断った(『後漢書』)。やがて、中央が戦乱に巻き込まれるようになると、難を避けて江南に移住した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E5%8A%AD
 「徐璆<は、後に、>・・・曹操が丞相を拝命する際、・・・その使者となった<ところ、>曹操は丞相の地位を徐璆に譲ろうとしたが、・・・受けなかった<、という人物だ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%92%86
 「郡守が本籍地回避制度によって他郡出身者であったのに対して,功曹などの郡吏はその郡内から任用された。なかでも功曹は郡吏の任免賞罰を司り,在地の勢力者が多かったから,おのずから権限が強大で,また上級の官に昇進する例も多かった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8A%9F%E6%9B%B9-62555

⇒官僚任官制度が、最終的に(隋の時に始まる)科挙になるところ、それがハッピーエンドになるどころか、その科挙がまた、様々な弊害を惹き起こすことになることを我々は知っているだけに、後漢における、制度の下方劣化スパイラルは、我々にただただ暗澹とした気持ちにさせます。(太田)

(続く)
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