太田述正コラム#13856(2023.11.17)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その44)/竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その1)>(2024.2.12公開)

「また、梁をはじめとする南朝は、華北を胡族に奪われたため、「漢」を理想としていた。
 はるかに遠い周ではなく、武帝のときに匈奴を撃破した中国の「古典」時代である「漢」を断代史<(注133)>として描く『漢書』が、高い評価を受ける理由はここにもある。

 (注133)「通史とその性質を対となし、その時代におきた様々な出来事を記録したものである。・・・
 古より<支那>では、ひとつの王朝の歴史は次の王朝が編纂すべきという史実に関する思想があり、後漢書などもこの考えに基づき後世において残された記録から編纂されている。根幹にあるのは自らのことを記すと誤摩化しが生じるという思想であるが、次代王朝において不利なこと(皇位簒奪など)においてはその限りではないので注意が必要である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AD%E4%BB%A3%E5%8F%B2

 南北朝を統一した隋、そして唐においても、『漢書』への高い評価は続いた。・・・
初唐の劉知幾<(注134)>(りゅうちき)も、史学理論の書である『史通』において、『漢書』を『史記』よりも評価するように、経典に準ずる扱いを受けた『漢書』に対して、『史記』は不遇であった。・・・

 (注134)661~721年。「後漢の劉愷(前漢の宣帝の子の楚孝王劉囂の玄孫)の末裔にあたる。・・・史通は、<支那>における史学批判および史学理論の最初の書とされる。よって、<支那>での純粋な歴史学の創始者は、劉知幾であるという。
 後世、『史通』は歴史研究者の必読の書となったが、文章が難解であるため、清の浦起龍の注釈書である『史通通釈』20巻によって読まれることが多い。
 劉知幾は、正三品下という左散騎常侍にまで栄達したが、長男の劉貺が罪を犯したことに連坐し、安州別駕という地方の属官に降格され、61歳で不遇のうちに病死した。没後、主著の『史通』が玄宗の前で講じられ、玄宗の心を動かしたことで、罪を赦され工部尚書を追贈された。・・・
 劉知幾は「史才論」において、史官が持つべき能力を以下の三点にまとめて述べた。
才 – 史料批判や文筆の才能、史書構成の識見のこと。
学 – 多聞博識、知識が豊富なこと。
識 – 歴史叙述を遂行するための正義感、政治的道徳性を備えていること。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%9F%A5%E5%B9%BE

 漢を「古典」とは考えない「近代中国」になって、『漢書』は「史」の王者の地位を<『史記』に譲って>失った。
 しかし、その時代には、中国は、自らの主要構成民族を「漢」民族と呼ぶようになっていた。
 「漢」が「古典中国」であることが失われることはなかったのである。・・・」(256~258)

(完)

       --竺沙雅章『独裁君主の登場--宋の太祖と太宗』を読む(その1)--

1 始めに

 今度は、漢(前漢/後漢)の次の漢人王朝である宋を、表記の本でもって、その太祖と太宗時代で代表させる形で取り上げることにします。
 なお、竺沙雅章(ちくさまさあき。1930~2015年)は、京都府の曹洞宗の寺に生れ、京大文卒、同大院博士後期課程単位取得退学、同大人文科学研究所助手、同助教授、同大文助教授、同大博士(文学)、教授、名誉教授、大谷大教授、という人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%BA%E6%B2%99%E9%9B%85%E7%AB%A0
この本は、「1975年・・・、新版1984年、改版2017年」(上掲)で、この改版は、「1984年に刊行したものに表記や仮名遣い等一部を改めて復刊したもの」(本書裏書)です。
 今頃になって、ちゃんと見ずに買ってしまったけれど、やや古い本だったなと反省していますが、とにかく始めましょう。

2 『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む

 「・・・五代宋初に限らず、中国史には生の資料となる古文書がほとんど残っておらず、もっぱら書物が歴史史料の源泉となっている。
 中国史の研究条件が日本史などとおおいに異なる点の一つである。
 文書ならば事件の一端を粉飾なく伝えてくれるが、書物はその著者の史観や興味によってすでに資料の取捨がなされ、もとの文章も改められていて、われわれはその著者の眼を通して当該の次代を眺めることになる。

⇒「文書ならば事件の一端を粉飾なく伝えてくれる」は、「文書ならば事件の一端を粉飾なく伝えてくれる場合が多い」、でしょう。(太田)

 まして、朝廷の史館に勤務する文臣が皇帝の命を受けて編纂した実録とか正史とかになると、時の権力者の意向に左右されて史実が改竄されることも珍らしくない。
 そうした例は五代宋初の歴史書–新旧五代史や太祖実録などにもみられるのである。」(5)

⇒概ね戦乱を伴うところの、幾度もの王朝変遷、があり、しかも、秦の時には焚書もあった、といった点で日本に比べてはそう言えても、戦乱状態が続いたと言ってもよいところの、例えば西欧、ではそういうことはなかった(典拠省略)のですから、支那における残留古文書の少なさの理由について、望蜀の嘆かもしれませんが、著者にもう少し踏み込んだ説明をして欲しかったところです。(太田)

(続く)