太田述正コラム#13860(2023.11.19)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その3)>(2024.2.14公開)

 「・・・朱全忠は・・・<自分が>参加した・・・黄巣軍・・・に天下を取る見込みがないとみて、唐朝に寝返った。
 喜んだ朝廷では彼に全忠の名を与え・・・節度使に任用した。
 彼は沙陀<(コラム#13666)>族出身の李克用<(コラム#13712)>(りかつよう)と聯合して黄巣軍を鎮定すると、黄河と大運河が交わる交通・経済の要衝である「人繁財富」の汴州を本拠に、周囲の諸軍閥を併合して、急速に勢力を伸張した。
 その理由の一つには、・・・人民の負担を軽くしたことが挙げられよう。
 それは、彼が父を失って貧困にあえぎ、他人の家にや傭われた、かつての辛い経験から出た施策であったとみられる。
 天下簒奪をもくろんだ朱全忠は朝廷に近づき、当時の朝廷にとって癌であった宦官を皆殺しにし、ついで・・・「白馬の禍」によって高級官僚を葬り去った。
 そして間もなく、彼は唐から帝位を奪い、後梁国を建設した。
 そこで、宦官と高官の殺害行為は天下を取るための手段にすぎなかったとみられるのだが、建国後もそれらを排除する方針は維持されていたのである。・・・
 <さて、朱全忠は、>第一<に>、首都を汴州<(注5)>(べんしゅう)(大梁、開封)に定めた・・・。
 (注5)「<支那>にかつて存在した州。南北朝時代から五代十国時代にかけて、現在の河南省開封市一帯に設置された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%B4%E5%B7%9E
「開封<(かいほう)市については、>・・・春秋時代に遡り、当時この地方を支配していた鄭の荘公が現在の開封の近くに城を築き、そこに啓封と名づけた事から始まる。後に前漢の景帝(劉啓)を避諱して、同義の開の字に改められた。
 戦国時代には魏の領域であり、大梁と名づけられて首都となった。しかし秦の攻撃で落城した際に、都市も荒廃した。・・・
 東魏時代には梁州、北周時代には汴州と呼ばれた。
 隋代になり、大運河が開通すると一気にこの都市の重要性は高まり、南からやってくる物資の大集積地として栄えた。
 その後の唐末期に首都長安は荒廃し、それに代わってこの都市が全<支那>の中心地となり、唐から簒奪した朱全忠はここを首都として後梁を建てた。
 その後の五代政権も後唐を除いて全てこの地を首都とし、後周により汴州と改称された。
 その後、趙匡胤の建てた宋では、汴州を「東京開封府」(開封府)と称して、ここを国の首都とした。・・・
 北方の金が開封を占領し南宋と対峙すると、首都の座を失うとともに南北分断によって大運河も荒廃し、3重の城壁のうち外の2つは放棄される。
 モンゴル帝国により攻められて領土の大半を奪われた金は、この地に遷都して抵抗を続けたが、程なく滅ぼされた。
 金と元では首都は北京(中都・大都)に置かれ、開封はあくまで河南の中心地に留まる。また元が<支那>を統一すると、杭州と大都を短絡する形で大運河が再建され、開封は新たな大運河から外れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%B0%81%E5%B8%82

 古来、都は長安か洛陽に置かれた。
 両都を制覇することは中国に君臨することを意味した。
 それを棄てて汴州という新興の経済都市に都を定めたのは、ここが朱全忠の本拠地であり、かつての都長安は唐末の戦乱ですっかり荒廃してしまったことなどにもよるが、何よりも経済的な理由からであった。
 ・・・汴州は華北と江南を結ぶ大運河と黄河とが会合する地点にある。
 南北朝以来、江南の開発が進んで、唐中期になると江南は河北より経済的に優位に立ち、唐朝は江南の米をわざわざ長安まで輸送して都人の糧食をまかなわねばならなかった。
 その場合、大運河によって江南から運ばれた物産は一旦、汴州で陸揚げされ、改めて黄河をさかのぼらねばならず、長安まで輸送するのは大変なことであった。
 それよりは陸揚げされる地点に都を置くほうが便利である。
 汴州に都を定めたのは、こうした経済中心の変化に対応する現実的な理由からであった。
 その後、後唐の一時期を除いては、他の諸王朝もここに都を定め、都城の整備もなされて、北宋では人口100万の大都会となったのである。
 そして、二度とふたたび長安・洛陽は首都の地位に返り咲くことはなく、一地方都市に転落した。
 中国の首都の歴史で、後梁の果たした役割は大きいといわねばならない。」(25、27~28)

⇒著者・・に限らず少なくとも戦後日本の支那史学者の大方がそうなのでしょうが・・は舌足らずであると思えてならないのであって、朱全忠が後梁の首都を汴州に定めたのは、そこが水運の要衝だったからであり、経済的な理由だけではなく、軍事的な理由(兵站的な理由)も大きかったはずです。
 だからこそ、その後、宋までもが、そこを首都に選んだのでしょう。(太田)

(続く)