太田述正コラム#13866(2023.11.22)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その6)>(2024.2.17公開)
「・・・<趙匡胤>の趙氏<について、>・・・確実な事績が知られるのは、父の弘殷<(注16)>になってからである。
(注16)899~956年。
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%B6%99%E5%BC%98%E6%AE%B7
大野旭(揚海英)・・内蒙古出身で日本に帰化した現在静岡大教授・・
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%A5%8A%E6%B5%B7%E8%8B%B1
は、趙家が突厥系の部落出身ではないか、と、見ている。
但し、主流説は趙家は漢人としている。
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%B6%99%E5%BC%98%E6%AE%B7 前掲
彼は若いときから勇敢で武芸に長じていたので軍人となり、故郷をはなれて鎮州の王鎔<(注17)>軍閥に仕えた。
(注17)873~921年。その男子に、妻との間にもうけた趙匡濟(早逝)、趙匡胤(宋太祖)、趙光義(宋太宗)、妾との間にもうけた趙廷美、趙匡贊(早逝)がいる。
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%8E%8B%E9%95%95
王鎔の先祖はもともとウイグル人であったが、8世紀中ごろ、鎮州軍閥の騎馬隊長となって中国姓を名乗るようになり、その後、成徳軍(鎮州)節度使を数世にわたって継承した。・・・
宋代におこった講談は元代になると戯曲、いわゆる「元曲」に採り入れられたが、そのなかには宋の太祖を題材にしたものも含まれていた。・・・
それらはほとんど・・・元朝の南宋征服以前のものである。
それは、華北の異民族支配下に住む中国民衆がふたたび趙匡胤のような中国人皇帝の出現を待望していたことを物語る。
⇒趙匡胤の父親の弘殷が王鎔に仕えた軍人であったことくらいは知られていたけれど、王鎔の先祖がウイグル人であったことまでは余り知られていなかったのでしょう・・現に王鎔の漢語ウィキペディア(上掲)にも先祖の話は出て来てきません・・が、知られておれば、弘殷だって、つまりは、趙匡胤だって、非漢人系である可能性が疑われてしかるべきところ、匡胤が純中国人(漢人)である、と、当時の支那の人々は信じて疑わなかったようですね。
私自身は大野説乗りです。(太田)
ともあれ、大都の書店に『趙太祖飛竜記』が売られていた事実とあわせて、元から明初の華北において宋の太祖の人気が低くなかったことが知られるのである。
小説や戯曲に出てくる若き日の趙匡胤は、高貴な生れなのに市井の無頼漢と義兄弟の杯をかわし、棍棒を持って大暴れする豪傑の一人である。
ここに描かれた太祖像はもとより作家や民衆が作りあげた虚像にすぎないが、しかし案外、豪放といわれた太祖の実像とそれほどかけ離れてはいないようである。・・・
後晋の高祖<(石敬瑭)が、遼に>・・・燕雲十六州を割譲したことは、劉知遠が憂慮したとおり、中国に百年の患を残すこととなった。
その後の五代王朝と北宋朝はしばしばこの奪還をはかって出兵したが、そのたびに失敗し、この地帯は180年間ずっと契丹が領有した。
そればかりでなく、これが外民族国家の中国領有に先例を開くことになり、従来、北方民族は侵入しても物資や人間を掠奪すると引き揚げることが多かったが、これ以後、外民族は土地の領有を目的として侵入するようになった。
⇒「中国に百年の患を残<した>」だの、「外民族国家の中国領有」だの、この本の執筆時期の古さを勘案しても、著者の筆致には違和感を覚えます。
鮮卑系王朝である隋や唐、そしてそれを遡る、五「胡」十六国時代、を、著者は一体どのように認識していたのでしょうか。(太田)
その結果、契丹につづいて、金・元さらに清と、いわゆる「征服王朝」が相次いで中国に成立したのである。
十六州のなかには宋の太祖らの本籍地涿州も含まれていた。
このたびの割譲によって趙氏一家は故郷を失い、もはや先祖の地を踏むことはできなくなった。」(42~43、55、61)
(続く)