太田述正コラム#13868(2023.11.23)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その7)>(2024.2.18公開)
「・・・宋<では、>・・・禁軍は・・・馬軍都指揮使、歩軍都指揮使、殿前都指揮使・・・<の>三衙<(注18)>(が)・・・<に分けられ、>・・・<この>三衙を統轄し禁軍全体を掌握する将軍は存在しなくなり、三衙をあわせ統率指揮する権限を持つものは、ただ皇帝のみという組織ができあがった・・・。
(注18)「五代では殿前都点検という禁軍の総司令官がいて,これが天子に推される傾向にあったので,宋の太祖は禁軍の組織を改編し,それぞれに都指揮使などの官職を設け,権力を分散させたのである。」
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しかも、おのおのの都指揮使には、地位の低い将校や凡庸の武将を任命して、太祖の意のままになる者を配備した。
それだけでなく、これらの指揮使には所属の兵隊を指揮する権限つまり握兵権はあったが、出兵や交代といった、兵隊を動かす命令権は与えられなかった。
その発兵権は枢密院<(注19)>が握っていた。
(注19)「軍政の最高機関とされ、民政を管轄する中書省と並んで「二府」と称された。枢密院の主要職責としては用兵、辺境警備、軍令及び密令の発布、邦治の補助とされ、皇帝直轄の禁軍も枢密院の指揮下に置かれた。枢密院は宰相とともに朝政の中枢であり、ともに対等な関係に置かれ、枢密使は宰相や三省官同様に皇帝へ直接稟奏する権利を有していた。
枢密院の長官は枢密使(知枢密院事とも)と、副長官は枢密副使(同知枢密院事とも)と称され、文官が任命された。その下に武官による都承旨及び副都承旨が設置された。またそれ以外には定員のない編修官が設置された。・・・
後<に>は中書省との対立関係が生じるようになり、金の進出に対して主戦論を唱える中書省に対し、枢密院は講和論を主張し国論の統一に失敗、徽宗及び欽宗が金軍の捕虜となる事態(靖康の変)を招き宋軍は瓦解するに至った。」
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だから、枢密院を通して天子の命令を受けなければ、指揮使は兵を動かせなかったのである。
一方、枢密院の方は発兵権は持っていても握兵の権限はないから、兵隊を実際に動かすことはできない。
その両者を統轄するのは、やはり皇帝だけであり、皇帝の禁軍に対する権限はいちじるしく強大となり、五代のように、皇帝が禁軍に翻弄されることは、制度上おこりえなくなったのである。・・・
<更に、>全国の強壮な兵卒を中央に送らせて、これを禁軍に編入し、勇猛な兵士が藩鎮・・・つまり節度使・・・の軍隊にとどめられないようにした。
禁軍に編入された新兵の訓練は、太祖みずからが指揮監督し、軍隊内では肉を食ったり酒を飲んだりすることを厳禁し、絹の服を着たものは罰せられるなど、徹底的に節倹を身につけさせた。
また階級制度を厳格にし、上司の命令には絶対に服従させ、唐末五代のような下剋上の風潮を払拭した。・・・
太祖の時代、禁軍は22万といわれるが、そのうちの10万余を中央にとどめ、10万余を地方に派遣して両方の均衡をたもち、一方に偏重して変乱を招く危険を防ぐという配慮までなされた。
また、地方に駐屯する将兵は一か所にながくとどめず、3年ごとにぐるぐると交代させた。
これを更戍法<(注20)>(こうじゅほう)という。
(注20)’During the period of the garrison and berthing of the forbidden troops, their families are not allowed to accompany them, and they may return to their original places at the end of the period.
The imperial court temporarily appointed commanders and generals of the garrison army, resulting in impermanent commanders and impermanent divisions, which were easy to control. Although this method prevents generals from using the army as their own personal force, it greatly weakens the tacit understanding between generals and soldiers, resulting in the lack of cooperation between soldiers and generals on the battlefield and affecting the combat effectiveness of the army.’
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%9B%B4%E6%88%8D%E6%B3%95 漢語→Googleで英語へ
その表向きの理由は、将兵にいろいろな経験を積ませるとともに、勤務条件を平均にするということであったが、実際には、故意に「兵は将を知らず、将は兵を知らず」という状態をたもち、朝廷の眼のとどかない辺境で、将と兵とが緊密な関係になって勢力を扶植するのを防止するためであった。」(105~106)
⇒「注20」から更戍法は地方における禁軍を弱体化させてしまったことが分かりますが、中央における禁軍についても、「都指揮使には、地位の低い将校や凡庸の武将を任命して、太祖の意のままになる者を配備した」には開いた口が塞がりませんし、軍政を担当した枢密院のトップとナンバーツーは文官であったために軍事総指揮官としての皇帝の補佐に遺漏があったと想像される、というわけで、太祖のような軍事指揮官としての経験豊富かつ有能な人物ではない者が皇帝になった場合は、三衙を適切に指揮するのが困難になることは目に見えています。
しかも、中央における禁軍のうち、馬軍都指揮使下の軍と歩軍都指揮使下の軍は、組み合わせて指揮しなければならない場合が多かった筈であり、そもそも皇帝の負担が大きかっただけになおさらです。
一言で言えば、太祖は、その浅知恵から、宋の軍事力が脆弱なものとなり、宋の早期滅亡が運命づけられた軍事制度を構築してしまった、と、という感が否めません。(太田)
(続く)