太田述正コラム#13872(2023.11.25)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その9)>(2024.2.20公開)
「・・・太祖は中央集権の体制をつくるとともに、中央政府の機構でも、皇帝に権力を集中する君主独裁体制をきずいていった。
軍制については前述したが、行政機構でも、臣下に絶対権力を持つものの出現を防止するしくみが生れた。
まず宰相の権限を分散させるために、宰相に2人、ときには3人を任命し、通判<(前出)>と同様、参知政事<(注28)>という次官を置き、政務はこれら数人の大臣による合議制とし、皇帝みずからがその議長となって決裁する制度にした。・・・
(注28)「北宋の太祖は,宰相(同平章事)趙普が1人で強大な権限を掌握することをおそれ,964年・・・薛居正(せつきよせい)と呂余慶とを副宰相として参知政事に任命した。これが参知政事のはじまりで,宰相より低い格に付けられ,執政と称された。神宗(1068‐85)の官制改革で中書侍郎・門下侍郎に改められたが,南宋で参知政事の名にもどり,元代にも置かれた。職務は宰相と交替して決裁に当たり,百官への号令も行った。」
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宰相と参知政事とをあわせて執政とよぶが、このほかに軍政をつかさどる枢密院が設けられ<(前出)>、その長官である枢密使は、その地位が宰相と等しく、あわせて二府と称した。
また財政も宰相の職掌から分離されて、これは特別に三司<(注29)>という役所が担当した。
(注29)「五代・宋初の中央財政機関。唐代から始まった塩などの専売が重大な意義をもつとともに、令外(れいがい)の官である塩鉄使が重要視されてきた。後唐(こうとう)のとき、戸部(こぶ)のなかで租税収入をつかさどる戸部曹(こぶそう)と、支出をつかさどる度支曹(たくしそう)とを独立させ、塩鉄使とあわせて三司と称し、三司使をおいて天子に直属させた。宋初に至って三司はいよいよ重要性を増し、計相と称せられ、宰相執政の次に位するに至った。三司は全国の銭穀を動かすために膨大な組織をもち、労務者化した軍隊を指揮し、部内における人事の進退、賞罰を行った。部内で任命する下級将校に三司軍大将があった。しかし神宗の元豊年間(1078~85)の新官制で三司を解体し、その職務の大部分を戸部に返した。」
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その長官三司使<(注30)>も宰相に匹敵する地位にあって、財政上の宰相という意味で計相ともいわれた。
(注30)「唐の安史の乱ののち設けられた塩鉄使,度支使および唐初から設けられていた判戸部を三司といっていたが,五代後唐の・・・930・・・ 年,張延朗が,その長官として三司使に任じられたのが始りで,北宋に受継がれた。専売事務,財賦の調達,出納など国家財政を司る,いわば大蔵大臣に相当した。経済の発展につれ,北宋では計相といわれ,参知政事 (副宰相) に次ぐ重要な地位であった。元豊の官制改革で戸部に吸収された。」
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枢密使、三司使ともに皇帝に直属し、唐代において「事(せいむ)の総べざるなし」といわれた宰相の権限は、ここに分割された。
宰相は政務の一部分を分掌するにすぎなくなり、もろもろの権限を統轄するのは皇帝一人のみという、君主独裁の体制が形成されたのである。」(112、114)
⇒太祖の比較的若年における突然の死と彼の同母弟の太宗の帝位継承の話が後ほど出てきますが、それに関連すると私が思うところの、これまで紹介を端折っていた挿話の一つ、を、この際、ネット上の記事を引用して紹介しておきましょう。↓
「「杯酒を以て兵権を釈(と)く」という・・・エピソード<がある。>・・・961年のある日、宋の太祖は石守信らの大将を宴会に招き、酒を酌み交わしながらしみじみと語り出した。「私が皇帝になれたのも、みんなあんた方のおかげだ。しかし、皇帝になってみると、かえって一晩中安眠できなくなってしまった」。大将たちがそのわけを聞くと、太祖は「この位は誰かが必ず取って代わりたいとおもっているからだ」と答えた。大将たちは慌てて「そんなことはありません」と打ち消すと、太祖は「確かにそうだろう。しかし君たちにその気が無くとも、君たちの部下で富貴や地位を望むものがいて、君たちに黄袍(皇帝の着る黄色の上衣)を着せたとしたどうするかね」と一同を見回した。誰もが涙を流して「私たちはおろかでした。そんなことにならないためにはどうしたら良いでしょう」とすがりつくように訪ねた。「あなた方は兵権を放棄して、田舎に帰り、よい田畑や屋敷を買って楽しい一生を送って子孫にも財産を残すがよい」と真顔でいう太祖の言葉を聞いた大将たちは、次の日になるとみな兵権を放棄することを申し出た。太祖はそれを許し、みな閑職に就けて私邸に引きこもった。こうして太祖は難なく大将たちから武力を奪い、兵力を皇帝直属軍(禁軍)が独占し、将軍たちが兵力を貯えることを防いだのだった。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-033.html
私が言いたいのは、太祖が酒が大好きだったらしいということであり、そんな太祖が、軍事を含めて政務全てを独裁的に執り行う体制を作ってしまったのですから、心身に大変なストレスがかかる仕事に四六時中追われる生活を続けることになったと想像され、このストレス晴らしをするために、仕事が終わってから、寝付くためにも、一層酒に溺れるようになり、健康が蝕まれ、その結果、50歳で急死したのではないか、ということです。(太田)
(続く)