太田述正コラム#13874(2023.11.26)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その10)>(2024.2.21公開)
「・・・<太宗は、>即位4年目から南方討平に乗り出したが、・・・十国のうちでもっとも小国である荊南<(注31)>と湖南<の>・・楚<(注32)>・・から攻略していった。・・・
(注31)けいなん(907~963年)。「建国者の高季興(こうきこう)は陝州硤石県(現在の河南省三門峡市陝州区)の人で、汴州の商人・・・の家僕(召使)から身を起こし、朱全忠の軍に身を投じて信任され、副将として朱全忠に従い、各地を転戦した。907年に朱全忠が唐を滅ぼして後梁を建てると、高季興は荊南節度使とされ、戦火の絶えなかったこの地の復興に力を注いだ。その後、朱全忠が死ぬと荊州(江陵)・帰州・硤州の三州をもって自立した。・・・
荊南が割拠した荊州は<支那>のへそとも言うべき重要な戦略的要衝である。・・・高季興・・・の長男<で>・・・後を継い<だ>・・・高従誨は<、>・・・巧みな政略で、各国の勢力緩衝地帯としてこの地の重要さを諸国に認めさせ、弱小国であることを逆手にとった平和を作り出し、巨大な交易中継地点として荊南を栄えさせた。・・・
山崎覚士は荊南に与えられた「南平王」は平王と呼ばれる「<支那>(五代王朝)」が辺境を支配する有力節度使に与えた称号であり、荊南は自立性が強かったものの領域内の刺史任命権や中央行政府すら持っておらず、他の九国のように自立した国家ではなく、五代王朝の領域の一部であったとする説を唱えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%8A%E5%8D%97
(注32)907~951年。「建国者の馬殷(ばいん)は木工から身を起こして、河南の群雄の秦宗権(しんそうけん)の武将の孫儒(そんじゅ)に従って淮河の周辺を転戦し、孫儒の死後に長沙(潭州、現在の湖南省長沙市)に入って湖南一帯に勢力を獲得し、896年に湖南節度使となる。その後、広西方面にも勢力を伸ばし、907年に朱全忠により、後梁が建てられるとこれに入朝し、楚王に封ぜられた。その後、後梁が後唐に滅ぼされるとこれにも入朝し、歴代の王は全て中原の五代王朝に称臣した。
これは軍事的には東の呉<、後の南唐、>に対抗するためであり、経済的には特産品の茶の交易路を閉ざさないためでもあった。当時、茶は全国で需要があり、北方の契丹なども貴重なビタミン源として茶を求めていた。また茶以外にも木綿や絹などの産業を興し、湖南・広西の経済を大きく育てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E5%8D%81%E5%9B%BD)
その占領政策はその後の諸国平定のモデルとなった。
すなわち、罪囚を減刑あるいは釈放し、租税を減免し、兵士の帰農を許したほか、管内の文武官吏はもとのまま執務させた。
その代わり、中央の大官を主要な州に知州として派遣し、さらに湖南諸州には通判を置いて、州政を監督させた。
これが、前に述べた通判の始まりで、もともとは占領政策の一つとして行われていたものが、のちに全国的に拡げられたのである。・・・
<次には、965年の>正月、・・・都を出発してわずかに66日で後蜀<(注33)>を降伏させた。・・・
(注33)こうしょく(934~965年)。「後蜀の前に四川には前蜀が割拠していたが、内部の腐敗を突いた後唐の荘宗により925年に滅ぼされた。そしてこの地の統治を任されたのが、後蜀の建国者の孟知祥である。
その後、後唐では荘宗が殺されて明宗が擁立される。明宗は蜀にいる孟知祥への警戒心を強め、孟知祥を抑制する動きを見せる。これに反発した孟知祥は930年に挙兵して後唐軍を蜀から追い出し、932年までに蜀全域を制圧した。ここに至り、明宗も孟知祥を完全な支配下に置くことを諦めて懐柔策に転じ、933年に孟知祥は蜀王に封ぜられ、翌年に明宗が死ぬと完全に自立して皇帝位に就いたが、同年に死去した。
その後、孟知祥の五男の孟昶が帝位に就く。天然の要害である蜀ではあまり外敵の心配はせずとも良く、その軍隊を内部の監視に向けて権力を保持し、前蜀が発展させた農業・養蚕業を更に発展させ、文化人の保護に力を入れた。・・・
さらに五代が後晋から後漢へと代わる混乱に乗じて、秦・階・成・鳳の四州(現在の甘粛省天水を中心とした地域)を奪った。しかし後漢から後周へ交代し、名君世宗が登場すると955年に四州を奪い返される。960年に宋が成立すると孟昶は北の北漢と手を結んで宋に対抗しようとするが、抵抗むなしく965年に宋に併合された。・・・
後蜀が滅びた後に、宋は戦費調達のために蜀の地を徹底的に収奪し、大量の財貨を開封へ持ち帰った。このことは蜀人の宋に対する強い恨みを残し、後の993年から995年にかけて四川均産一揆と呼ばれる大規模な農民反乱を起こすことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%9C%80_(%E5%8D%81%E5%9B%BD)
<そして、今度は、>方向を転じて北漢征伐をくわだてた。・・・
この北征は太祖みずから出陣したにもかかわらず、見事に失敗した、太祖のただ一つの負け戦さであった。・・・
<そこで、>改めて残った南方諸国の平定に向かった。
その矛先は都からもっとも遠い嶺南の南漢<(注84)>に向けられた。・・・
<そして、>970<年>9月、・・・大軍を派遣し、翌年2月に<首都>を攻めおとした。」(117~119、122、124、126~127)
(注84)909~971年。「五代十国時代に広東省・広西チワン族自治区・ベトナム北部を支配した地方政権。・・・
建国者の劉隠の祖先は漢王室の支族・・・の子孫と自称した<が、>・・・遠祖はアラブ系だという説がある。・・・
南漢の政治は同時期に存在した他の五代十国政権と違い、軍人主導ではなく文官が優越しており、地方官には全て文官があてられていた。この理由としては、唐代の中央での権力争いに敗れた官僚たちの左遷先として当時未開の地だったこの地方が選ばれており、左遷された後も住み着いた者が多く、そのような人々の子孫たちや戦乱の続いた中原から逃れてきた人士が南漢勢力に参加したからである。
しかし<第4代の>劉晟<(りゅうせい)>の代になると宦官が重用され、宦官の数も約7,000人から劉晟の在位末期には約2万人に増加し、全人口の2%(成人男性の1割近く)が宦官という状況に陥る。後を継いだ劉鋹<(りゅうちょう)>は大勢の文官を粛清し、空いたポストに宦官を登用、登用したい人物がいた場合はわざわざ去勢してから登用したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%BC%A2
⇒宋による十国征服事業はその後も続きますが、これまでの5国を瞥見しただけでも、小成に甘んじていた国ばかりであり、早晩、滅亡は免れなかったと言うべきでしょう。(太田)
(続く)