太田述正コラム#2832(2008.10.5)
<ノーベル賞がとれない米国の小説家(続)(その2)>(2008.11.22公開)
(2)ニューヨークタイムス掲載の反論
満を持していた(?)ニューヨークタイムスが文学評論家(「文芸評論家」と言った方が一般的でしたか)のマッグレース(CHARLES McGRATH)による次のような反論を掲載しました。
<今年のノーベル文学>賞・・・の発表は今度の木曜日に行われるが、掛け金は、米国では誰も聞いたことがなく、作品が絶版になっているか、理想を言えばまだ一度も出版されていない作家に賭けるべきだろう。・・・
もう一つお勧めの賭け戦略は、米国叩きの前歴のある作家を捜すことだ。米国流資本主義を批判していて一度は米国への入国を禁止された人物を。・・・
もしあなたが万能仕様のポリティカル・コレクトネスまたは評判の悪い体制への反対を付け加えれば、賭けに勝つ可能性は更に高まる。
もっともその場合、あなたは2001年には賭けに負けていただろう。トリニダード生まれであるけれどイギリスに移植されたV.S. ナイポールという、左翼でもなくポリティカルコレクトネスにも無縁の人物がノーベル賞をもらったのだから。しかし、2003年と2006年にはそれぞれ、南アフリカ生まれで現在はオーストラリア国籍の、小説家にして批評家のJ.M. コエツィーと、トルコの小説家にしてメモワール作家のオルハン・パムクが受賞したことで掛け金をせしめることができたはずだ。
換言すれば、ノーベル文学賞選考の過程は、エングダールが示唆するところの「大きな議論」に係る、高邁な営みでもなければ、純粋に文学的な営みでもないのであり、今までずっとそうだったのだ。・・・
<いずれにせよ、>米国では、ノーベル文学賞受賞は、ピューリッツァー賞やナショナル・ブック・アウォードが引き起こすささやかな売れ行き増すらもたらさない。・・・
(以上、
http://www.nytimes.com/2008/10/05/weekinreview/05mcgrath.html?_r=1&em=&pagewanted=print&oref=slogin
(10月6日アクセス)による。)
ニューヨークタイムスですら、看板のリベラリズムに傷がつくような、英国や欧州に対するコンプレックスの裏返しの罵倒しかできないようですね。
(3)アリゾナ大学英語英文学教授のセリジャーによる反論
セリジャー(Jake Seliger)は次のような反論を展開します。
最も面白いのは、ミラン・クンデラ(Milan Kundera)が’The Curtain’の中で言うところの、「小さい国々の了見の狭さ(Provincialism)」と「大きな国々の了見の狭さ」だ。クンデラは次のように診断する。・・・
「了見の狭さ」の定義は、自分の文化を大きな文脈の中で見ることができない、または見ることを拒否するということだ。
大きな国々は、ゲーテ的な観念である「世界文学」に抵抗感を覚える。なぜなら、彼ら自身の文学が十分豊かに見えるので、彼らは他国の人々が書いたものに対して関心を持つ必要がない。
小さい国々が大きな文脈に対して沈黙を守るのは全く正反対の理由からだ。彼らは世界文化に対して大きな敬意を抱いているけれど、それを何か異形(alien)もの、彼らの頭上はるかにある空、遠く、近寄りがたく、彼らの国民文学とはほとんど接点のない理想的現実、のように感じている。・・・と。
エングダールが言いたいことは、要するに、米国の文学は、一、世界に広がっているポップ文化との関連により有罪である、二、そもそもからして本当の文学ではない、三、エングダールは米国の文化または他の面での覇権が気にくわない、あるいは、四、彼は、とりわけインドの興隆によって加速するであろうところの、欧州の文化的かつ経済的な重要性の相対的減少が気にくわない、ということなのだ。・・・
(以上、
http://jseliger.wordpress.com/2008/10/04/kundera-horace-engdahl-and-the-nobel-prize/
(10月5日アクセス)による。)
これも、空威張りにしか見えない反論ですね。
(4)英テレグラフ紙掲載の反論
英大衆紙のテレグラフの文学担当編集者のレイス(Sam Leith)は、英語文学を一括りにして次のような反論を行っています。
・・・まずもって、一体「文学世界の中心」とは何だろうか。それは、単純に言ってしまえば、英語で書くということだ。欧米世界において、最も古くて、最も多様で、かつ最もどん欲にあらゆるものを取り入れているところの生き生きした文学的伝統が英語文学なのだ。それは他のいかなる文学よりも多くの人々が入手しやすい文学でもある。
もしあなたが「世界の中心」について語るのであれば、それは間違いなく影響力について語っているということだ。エングダールが米国と欧州を対置するとき、彼は米国プラス英国と欧州大陸とを対置しているのであり、<文学における>影響力の中心はほかならぬ英語圏に存するのだ。
欧米における他の偉大な文学が互いに豊饒な無数の交流を重ねてきたことは間違いない。特に19世紀においては、フランス、ロシア、そしてドイツ文学を基軸として・・。しかし、20世紀においては英語がグランド・セントラル・ターミナル駅なのだ。ポーランド人のジョセフ・コンラッド(Joseph Conrad)が英語で書くことを選択したのには確かに理由があった。そしてそれに引き続く世代において、多言語を操るロシアのアタマの良い(smarty-pants)ウラディミール・ナボコフ・・・らもそうした。・・・
米国人が海外を見渡す時は、大体は英国だ。英国人が海外を見渡す時は大体は・・・米国だ。英米の読者達は翻訳で(生きているか亡くなってからそんなに時間の経っていない作家による)現代文学を読むことはほとんどない。・・・英米の作家で最近の欧州の作家達から大きな影響を受けている者もほとんどいない。・・・
<米国から寄せられる>最も耳タコの不満は、ここ数十年にわたってイギリスのフィクションは意欲的な(ambitious)米国のフィクションに比べてせせこましい(parochial)という点だ。すべての米国の作家は、この理論通り、時代精神(zeitgeist)にまず目を向け、全員が国家的叙事詩(national epic)を作り出そうとする。彼らは巨大で懐が深く何でも備わっているところの、『白鯨』・・・のような大(great)米国小説を作り出す。・・・それに対し、英国のわが群小作家達は、これまた理論通りに、ロンドン北部の特定の場所における退屈な(dreary)ひげ面の姦淫者達に関する見栄えが良い(well-turned)が無気力な(anaemic)小説を作り出すことに毎日を費やしている。・・・
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2008/10/03/boamerica103.xml。10月4日アクセス
ガーディアンに載った反論とはひと味違いますが、英国紙に掲載された反論はどれも興味深いですね。
大衆紙であることもあって、ガーディアンではなかなかお目にかかれないところの、アングロサクソン文明と欧州文明を対置した上での欧州文明への優越感が露骨に出ていますね。
なお、一見米国を持ち上げているようですが、実際のところ、米国もバカにしているのです。このことも行間から読み取ってください。
(完)
ノーベル賞がとれない米国の小説家(続)(その2)
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