太田述正コラム#13880(2023.11.29)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その13)>(2024.2.24公開)
「・・・科挙<について>は・・・太祖は・・・試験の不正をきびしく取り締り、貴族の子弟よりは貧しい出身者を多く及第させることに務めた。
しかし、毎年の進士科及第者は平均9人で、「唐の盛時のなかば」にすぎなかった五代の1年平均16.6人よりもはるかに少ない人数であった。
これは、太祖の取士方針が厳選主義であったことによるとの見方があるが、一面、草創期にして「人は学問を知らず、仕官を願わず」「国初なお武を尚(たっと)ぶ」との宋人の見解があるように、科挙が開かれても人材が集まらなかったことも原因の一つにあげられよう。
また、科挙制度上の太祖の功績として、・・・975<年に>・・・殿試を創設したことが知られる。・・・
<もっとも、>最初はただ省試の不正な判定を正すことにあり、太祖は独裁体制を支える役割を殿試に期待していたわけではない。
⇒人物を見定めるのであればまだしも、人の能力を見定めるためには、試験をする側の能力も相当程度高くなければ不可能なのであって、太祖や太宗並みないしはそれとさほど遜色がない能力の持ち主たる人物が後継の皇帝になる保証がない以上、殿試的な制度の導入は問題大いにあり(注89)でしょう。
(注89)「殿試は、中国の科挙の最終試験で、進士に登第した者が、皇帝臨席の下に受ける試験を言う。試験であるが不合格者は出さず、合格者の最終的な順位を決めるだけのものであった。皇帝の面前で行われたため、面接試験と誤解されることがあるが、実際には筆記試験である。・・・
殿試は皇帝自らが行う建前だが、実際には朝廷の大臣が試験官を務めた。これを読巻大臣という。読巻大臣は8名であり、その中には内閣大学士が含まれている。
上位より3名はそれぞれ、第1位が状元、第2位が榜眼、第3位が探花と呼ばれ、高官としての将来が約束された。
皇帝自ら行うため、時には皇帝の気まぐれや(政治的な)都合で順位が左右されることもあ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF%E8%A9%A6
また、何度も繰り返し指摘してきたことと同趣旨のことながら、太祖や太宗が、軍人の登用に科挙並みのものを導入することを考えなかったのは、片手落ちもいいところです。(太田)
ところが・・・太宗とき<の毎年の進士科及第者>は<1年平均で>50人にのぼった。
その傾向はさらに真宗以後にも及び、真宗のとき78人、仁宗のとき113人と激増した。・・・
このような・・・進士大量生産は、文治政策をすすめるうえで多数の文臣を養成しなければならないという、当時の緊急な必要に応ずるものであったが、一方、・・・科挙の門戸を拡大することによって、全国の知識人を朝廷に収<攬>し懐柔することをねらったものであった。
殿試後に行われる唱名賜第・賜詩・賜宴といった儀式が、太宗のときに始められたことはそれを示すものである。
天子が親しく行うこうした儀式を通じて、及第者は天子の恩に感じ忠誠を誓って忠実な官僚となり、皇帝権をいっそう強める効果を持ったのである。
殿試にこのような意義づけを行ったのは、太祖でなくて太宗であった。
つまり、科挙についても、太宗の施策は一種の変革であった。
太宗はあるとき、「朕はひろく俊才を科挙によって求めようと思うが、及第者10人のうち5人までが俊才であることは望まぬ。ただそのなかで1人か2人の俊才がえられるだけでも、政治の役に立つものだ」と侍従に語ったといわれる。
⇒意味不明です。
「5人までが俊才であることは望まぬ。」→「できるだけ多くが俊才であれば申し分がない。」的な話なら分かりますが・・。(太田)
この方針はのちのちまで継承されたが、北宋も中期を過ぎると、このためにかえって官僚の数が過剰になり、深刻な政治問題をひきおこした。」(164~166)
⇒ここも意味不明です。
毎年採用する一般職官僚の数が多過ぎるのであれば、進士以外の一般職官僚任用数を減らせば足りるはずだからです。
「宋の科挙制度も開始時は進士・明経その他の科が設けられていたが、王安石の改革で明経などの諸科が廃止されて、進士科一科となった。元で科挙が開始された時も進士科のみで、明・清もそれを受け継いだ。そのため科挙の登第者のことを進士と称するようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%A3%AB
のはそういうことでしょうし、上級官僚ではない、下級官僚、の任用数を減らすという手もあるわけです。(太田)
(続く)