太田述正コラム#13884(2023.12.1)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その15)>(2024.2.26公開)

 「・・・後周世宗と<宋の>太祖が幾度も試みて成功しなかった北漢の征服を成しとげた太宗は・・・<北漢の首都の>太原城にとどまること半月、・・・東に向かって出発した。
 宿願の燕雲十六州を奪回するためである。・・・
 <しかし、その>最大の都市、南京<(注97)>南州城を包囲した<が、>・・・そのうち・・・援軍が到着し、城の内外から攻撃を受けて、ついには包囲網を解き、城西を流れる高梁河で決戦を展開した。

 (注97)「南京道は・・・燕雲十六州<の中で、>・・・漢人が最も多く住んでいる地域である。<その南京道の>燕京<・・現在の北京・・>は辺境の軍事拠点から副都へと変貌を遂げたが、副都とはいえ遼の五京のなかでは最大の都市であった。契丹は五京を設けたものの、皇帝自身は都市に住まず、春・夏・秋・冬と、季節に応じたキャンプ地(ナパ)を移動した。これは、13世紀に成立したモンゴル帝国の君主も同じであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%95%E9%9B%B2%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B7%9E

 結果は宋軍の惨敗に終わり、戦死者は万余人にのぼった。・・・
 これは高梁河の戦とよばれ、宋にとっては屈辱的な事件であった。・・・
 986<年にも、太宗の宋は、>涿州西南の岐溝関<(注98)>(きこうかん)で大敗を喫した。
 これを岐溝関の戦という。・・・

 (注98)「涿県(・・・現在の北京の南西)の南西約25kmに・・・唐末に・・・設けられた関の名。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B2%90%E6%BA%9D%E9%96%A2-50268

 <爾後、>宋はしばしば契丹に対して和議を求める使者を派遣した。・・・
 このような宋・契丹和平の気運は真宗朝にひきつがれ、ついに有名な澶淵の和議<(注99)>が結ばれ、宋はやっと北辺の平和をたもつことができたのである。

 (注99)澶淵(せんえん)の盟。「1004年に北宋と遼の間にて結ばれた盟約である。国境の現状維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間絹20万匹・銀10万両を歳幣として送ることなどが決められた。・・・
 982年、遼で聖宗が即位する。内紛を収めた聖宗とその母の承天皇太后は1004年、20万と号する軍を率いて南下を始めた。
 これに対して宋の朝廷は大いに狼狽し、王欽若などは金陵(<現在の>南京)への避難を提案した。これに対して寇準は強硬に主戦論を主張し、皇帝真宗に対して親征を主張し、真宗もこれを受け入れ、澶州(現在の河南省濮陽市濮陽県)に赴いた。
 両軍は膠着状態に陥り、和平交渉が持たれた。・・・
 和平交渉は順調に進み、宋は毎年絹20万疋・銀10万両を歳幣として遼に送ること、真宗は承天皇太后を叔母とすること(宋が遼に対して兄となる)、国境の現状維持などが取り決められた。・・・
 その後の1042年、宋が仁宗・遼が興宗に代替わりした後、宋が西夏に手を焼いているのを見た遼は、宋に対して再び領土割譲を求め、絹・銀双方を10万ずつ上乗せすることで妥協した。この盟約は後の宋と金とで結ばれた海上の盟まで続く。
 この盟約により、宋はその間の平和を得て、高い経済力を元に繁栄が築かれた。しかし文治主義が過剰になって、軍隊の弱体化を招いた。遼は毎年送られてくる多大な財貨を元に、経済力を発展させて北アジア最強国へとのし上がり、文化の華も開かせたが、契丹の尚武の気風が薄れ、奢侈へと走ってしまったことも否めない。
 また後世において、宋が財貨を贈ることで平和を買ったことを、財政面や民族主義的な側面から非難する意見もある。しかし周辺諸国に財物を下賜して平和を買うのは、朝貢貿易として中国の伝統的な外交手法であり、宋・遼関係においては両者の上下関係の差が小さくなったに過ぎない。もっとも南宋時代の対金関係においては、上下関係が逆転し、南宋が臣下の立場となる屈辱を受けたのは事実である。
 一方で、相手国で生産が困難な絹織物や陶磁器・茶などを愛好する習慣が当地の社会全体に広がった結果、宋からの輸入量が激増して、贈った財貨を上回る財貨が宋側に還流することになり、結果的には宋の経済力の強化・税収の増大に繋がったとみる見方もあり、これは南宋・金関係においても同様である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%B6%E6%B7%B5%E3%81%AE%E7%9B%9F
 「澶淵(河南省濮陽(ぼくよう)市)は春秋時代の衛の地で、晋、斉などの諸侯がここで盟を結んだ故事がある。万里の長城以南のいわゆる燕雲十六州の地が契丹(遼)の支配下に入った宋代では、澶淵は黄河防衛の戦略上の拠点となった。・・・
 交渉が真宗の澶淵出陣を背景に行われたことから、澶淵の盟という。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BE%B6%E6%B7%B5%E3%81%AE%E7%9B%9F-549398

 後世から弱腰と非難される宋の外交策の基調もまた、太宗のとき成立したといえる。」(174~176、180~181、183)

⇒英露間のグレートゲームが、米露間の冷戦となり、その両者を中共が飲み込む端緒が見られる現在、宋・遼間の冷戦が、南宋・金間の冷戦となり、その両者を元が飲み込んだ歴史が思い起こされますね。(太田) 

(続く)