太田述正コラム#13886(2023.12.2)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その16)>(2024.2.27公開)
「・・・太宗が晩年になって契丹に対して事を構えるのを欲せず、和平工作につとめた理由の一つには、西北辺に勃興したタングート<(注100)>(党項)族の侵入に悩まされ、その対応にも力を注がねばならなかったことが挙げられる。・・・
(注100)「7世紀~13世紀ごろに中国西南部の四川省北部、青海省などに存在したチベット=ビルマ系民族である。11世紀初めに西夏を建てた。・・・
鮮卑慕容部の系統の吐谷渾が青海に勢力を張っていたが、隋唐の遠征軍に大敗して衰退し、代わってチベット系の吐蕃が勢力を伸ばし、タングートはこれに押される形で東の陝西・甘粛に遷る。ここで牧畜・狩猟・農耕に従事していた。
タングートは東山部・平夏部・南山部・横山部などに分かれており、その内の平夏部が最も強く、<支那>に対して敵対的でもあった。平夏部の王族は拓跋を名乗っていたが、鮮卑拓跋部の流れを汲むものではなく、かつて大きく隆盛した同一族にあやかって、拓跋と称したものと見られる。
唐末、黄巣の乱が起きた際に平夏部の首長の拓跋思恭は唐を援助し、この功績により国姓の李を賜り、定難軍節度使に任ぜられ、夏・綏・銀・宥・静の5州を支配した。
・・・北宋が建国された後、拓跋思恭の玄孫の李継捧の時に内部で継承争いが起き、983年に李継捧は宋に対して静州以外を自ら献上して服属を許され、開封へと移り住んだ。しかし族弟の李継遷(拓跋思恭の弟の拓跋思忠の玄孫)はこれを良しとせずに宋に対して背いて、東の契丹に服属する事で契丹より夏国王に封ぜられた。後に宋に対して服属し、趙保吉の名を賜るが、すぐに宋に対して背き、李継捧が献上した四州を取り返して勢力を広げた。
1004年の李継遷の死後、子の李徳明が後を継ぐ。前年に契丹が宋と和解しており(澶淵の盟)、単独では宋と対抗できないので、翌年に和睦し、宋より銀一万両・絹一万匹・銅銭二万貫・茶二百斤の歳幣を受け取る事になった。
宋とは和睦したが、ウイグルなどとは抗争を続けて更に勢力を拡大し、李徳明の子の李元昊の時代に宋より独立して大夏を名乗った。<支那>側からは西夏と呼ばれる・・・。西夏は1227年にモンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされ、チンギス・カンの孫のクビライ・カンが元を建国するとタングートは色目人の中に組み込まれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%88
太宗は・・・対外関係では、燕雲の故地を奪回できなかったばかりか、たび重なる敗戦によって契丹に対してすっかり守勢にまわった。
そのうえ、西北辺に興起したタングート族を思うように懐柔することができず、ついにその独立を許し、ながく辺患を残すことになったのである。・・・
あらゆる遊興を避けて、太宗はひたすら政務にはげんだ。
その日課は、彼自身の言葉によれば、「辰の刻(午前8時)から巳の刻(10時)まで朝堂で政務をとり、それを終わると読書をし、就寝は深夜になるが、五鼓(4時)には起床する。・・・」という規則正しい生活を送っていた。・・・
太宗は、本来なら所管の官庁にまかせていいような、財政や司法のごく些細な案件でも、親しく文書に目を通して決裁した。・・・
⇒わずか2時間の政務では、「ひたすら政務にはげんだ」などとは全く言えませんし、「財政や司法のごく些細な案件でも、親しく文書に目を通して決裁」することなど、到底不可能です!
著者が時刻を誤記した、と、思ってあげたいのはやまやまですが・・。(太田)
過去の諸帝王に対する太宗の批判は痛烈であった。・・・
いわゆる「貞観の治」を実現し、後代まで名君のほまれが高く、天子の模範のごとくみられた唐の太宗、李世民に対しても批判的であった。
唐の太宗は何事を行うにもあらかじめおおいに宣伝してから着手し、その治績が史籍に書きとどめられ、後世に伝えられることにつとめた、虚名を好む皇帝であった、と彼はいっている。」(184、189、192~195)
⇒太宗が21年間統治して逝去した997年から、宋が一旦滅んだ1127年の靖康の変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
まで、130年です。
決して長くありませんが、宋が滅びた潜在的原因の相当部分を太宗が作ったと私は思います。
太宗はとんでもない自惚れだった、と。(太田)
(続く)