太田述正コラム#13898(2023.12.9)
<母のことなど(その4)>(2024.3.4公開)
ところで、母は四日市高等女学校を卒業しています。
同校は「明治32年に設立された私立裁縫学校の校舎を移設し同34年開校した。本科4年制で、明治39年から専攻科ができた。昭和3年から一部5年制となり、戦時中にまた4年制に戻った」
https://blog.goo.ne.jp/hotokeya/e/0dedfc5d551e1eca6de725c9d841010c
というのですから、母は、生年からすると、小学校卒業後、5年間同校で教育を受けた可能性が高いことになります。
母は、確か、4人の石垣姉妹の中で唯一、高女卒ですから、四日市の女の子達の中ではそれなりのエリートだったのでしょう。
(石垣兄弟の方は、生一(不明)、(途中略)、勇(法政大学)、健(東京水産大学)といった感じです。
生一と健の間に、勇以外に、「たかし」と「ただし」がいますが、漢字が分かりません。なお、この2人のうち片方は登山していて転落死、片方は奥さんと女の子がいたが戦死、しています。)
健叔父は、その生前、母が亡くなってから、春子姉さんは、大した成績じゃなかったぜと私に語ったことがありますが、先般、件の従姉にそう話したら、健さんは何事によらず口が悪い人だった、そんなことは断じてありません、って相当怒ってましたね。
父の方は、富田中学校を経て名古屋高等商業学校卒であり、自他ともに許す秀才であったことは間違いなさそうですが・・。
さて、そんな母ですが、短歌好きで、斎藤茂吉全集を持っていましたね。
母の特技は、人の物まね、と、初対面のどんな人とでも瞬時に親しい関係を築いてしまうこと、であり、私は、そのどちらも、全く受け継いでいません。
後者の特技についてですが、カイロ当時に、私が母同伴でザルツブルグに一か月留学し、その後、欧州旅行をした時の例で言えば、私の留学先のモーツァルト音楽院をたまたま訪れていた、ミュンヘン留学中の武蔵野音楽大学の市田義一郎氏・・後に同大教授・・と親しくなり、私の帰国後、同氏のピアノのレッスンを受けることになりましたし、旅行中、どこかの美術館訪問中に居合わせた男性とも親しくなり、やはり帰国後、この男性が東京都の教育長をしていたので、北区の件の従姉の家・・というか、従姉の両親の家・・に(父の帰国前に)母子で居候をさせてもらっていた時期に、千代田区の永田町小学校に私を入学させるべく寄留先を確保後、万全を期すために、この男性に便宜を図ってもらったりしましたし、別の美術館訪問中に居合わせた広島の夫妻・・名前は「ふかみ」か「かいみ」だったような・・とも親しくなり、その後、母はずっと奥さんの方と文通を続け、その縁で、私が役所に入ってから間もない頃、確か九州への出張が決まった折に、私が、母に言われるまま手紙で広島を通って帰京しますよ、と連絡したら、東京へ列車で帰る途中、広島駅に停車中に、夫妻がプラットホームで待っていて、お土産をもらった、なんてこともありましたね。
(そもそも、今にして思えば、東京にさして土地勘のない父母が、番町小学校くらいは全国的にも知られていたでしょうから、そこに私を入れたいと思うことはありえても、番町に入れるのが厳しかったのかもしれませんが、いずれにせよ、永田町小学校などという「無名」の小学校に白羽の矢を立てるにあたっては、この教育長の助言があったとしても不思議ではありません。
いや、どうせ、母のことですから、初対面の時に、既に都教育庁のお偉いさんであったはずの彼に、東京に帰ることになりそうなので、その節にはよろしく、的な「請託」をかましていたとしても不思議ではありません。)
それにしても、いくら一人っ子だとはいえ、母の私への入れ込みようは尋常ではない、と思いませんか?
それもそのはずなのです。
もともと、母は、結婚するとの報告を主治医にした時点で、子供を作るのは無理だと強く言い渡されていたのですから。
(続く)