太田述正コラム#2846(2008.10.12)
<ソ連における米国棄民(その2)>(2008.11.27公開)
(参考:バーナード・ショーの1931年の講話)
解説:ショーはソ連訪問から帰ったばかりだった。
「・・・<彼らは>ソビエト社会主義共和国連邦においてワシントンとジェファーソンとハミルトンとフランクリンが築き上げたものと全く同じものを築き上げた。ジェファーソンはレーニンであり、フランクリンはリトヴィノフであり、ペインはルナチャルスキー(Lunacharsky)であり、ハミルトンはスターリンなのだ。今日はレニングラードにワシントンの塑像を見いだすが、明日には必ずやニューヨークでレーニンの塑像を見いだすことだろう。全世界のプロレタリアはロシアのボートに乗るつもりがあれば歓迎される。ロシアではどこでも希望がある。なぜなら、破産した資本主義が最後の絶望的なもがきの下にあり、われわれに対して悪が迫りつつあるというのに、ロシアでは共産主義の普及によって悪は後退しつつあるからだ。・・・」
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今でこそ、共産主義の国で自国民が逮捕されたり人質になったりすれば、大騒ぎになりますが、米国においては、1930年代はもとより、1940、50年代に至るまで(注)人々はそんなことには余り関心がなく、政府が手をこまねいていても、消息不明になった人の近親者はともかくとして、世論が騒ぐようなことはなかったのです。
(注)第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜になっていた米兵でそのままソ連の収容所送りになった者達が多数いるが、彼らは冷戦の間中ソ連にとどめ置かれた。米軍のディーン(John Deane)将軍は、「<彼らは>ソ連によって勝ち取られた戦争の戦利品だ。彼らは身ぐるみはがれ、飢餓に苦しめられ虐待されているかもしれないが、そうされても文句を言う権利はない」と記している。彼らの存在は、米国政府とソ連政府双方によって公的秘密として隠され続け、ソ連の崩壊まで明らかにならなかった。
この背景として、戦前から戦中にかけて欧米諸国全体が共産主義のソ連に対し甘い認識を抱いていたということがあげられますが、それにしても当時の米国のソ連についての無知さかげんは際だっていました。
駐ソ米国大使のブリット(William Bullitt)は、大使館でど派手な舞踏会ばかりを催していました。
次のデーヴィス(Joseph Davies)大使は社交好きの大金持ちでローズベルト大統領のお友達でしたが、スターリンを尊敬しており、何千もの米国市民達を含む何百万もの人々が、ソ連の1930年代のでっちあげ裁判で次々に死刑を宣告されていくのを承知していたのに、これらがまともな裁判だと信じて疑いませんでした。
それどころか彼は、ソ連の秘密警察の幹部達を自分のヨットに招待してハリウッド製の映画を見せるのを旨としていたくらいです。
彼と米穀物加工食品会社ポスト社の相続人たる彼の妻は、モスクワでルイ16世とマリ・アントワネットも真っ青になるほどの豪奢な生活を送りました。
またデーヴィスは、スターリン礼賛の超大作本で映画にもなった「モスクワでの任務(Mission to Moscow)」を著し、革命の混乱の中で略奪された美術品を妻と一緒に私的コレクション用に買いあさるのが趣味でした。
モスクワの米国大使館は、米国市民達を保護するどころか、大使館に助けを求めようと近づくおろかな米国市民達を捕まえる絶好の場所としてソ連当局に利用され続けました。
ローズベルトの副大統領であったウォレスは、1944年にNKVDの首脳の案内でソ連のコリマ(Kolyma)収容所を訪問しましたが、彼は自分が鉱山会社の社長に案内してもらっていると信じ込んでいました。
当時、国務省には、ソ連で消息不明になった米国市民達の親戚達から善処を求める手紙が山のように寄せられたのですが、何の対応もなされませんでした。後にソ連封じ込め論で一世を風靡するジョージ・ケナン(George Kennan)も国務省幹部の一人として何の対応もしなかった人物です。
きわめつきは資本家中の資本家であったヘンリー・フォード(Henry Ford)です。
彼は1930年代に、ニジニ・ノヴゴロド(Nizhni Novgorod)に4,000万ドルもかけて巨大な自動車工場をつくりました。大恐慌のまっただ中に何百万ドルも金塊で支払ったのです。
この工場で大勢の米国市民達が働いたことは前述しました。
1929年から36年の間、米国のいかなる企業よりも当時のソ連と商売をしたのがフォード社でした。
いや、それだけではありません。
1941年まで、ソ連だけでなくナチスドイツのためにもドイツで車をつくり続けたのがフォード社でした。
黒人の超有名芸人のポール・ロブソン(Paul Robeson。1898~1976年)も、当時、スターリンを褒め称え続けたものですが、生涯、そのことについて反省の意を表することはありませんでした。
この途方もない無知さかげんが、ヤルタ協定と戦後の欧州の分割、そして私に言わせれば、支那における共産党政権の誕生や朝鮮半島における分断と戦争をもたらしたわけです。
3 終わりに
書評子の一人のビリングスレイ(Lloyd Billingsley)は、米大統領の誰かがこういった事実を公式に認めた上で上記米国市民達の生存者やその家族に賠償金を支払う日が来ることを期待していると記しています。
私は、天文学的な額になることもあり、賠償金を支払えとまでは言わないけれど、米国の大統領がいつか、共産主義とファシズムの犠牲者達、そして(日中戦争や朝鮮戦争を含むところの)広義の第二次世界大戦の犠牲者達に対し、戦間期(及び第二次世界大戦中)における米国の逸脱行動について、謝罪をしなければならないと思っています。
(完)
ソ連における米国棄民(その2)
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