太田述正コラム#13962(2024.1.10)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x4)>(2024.4.6公開)


[鄭国渠]

 『始皇帝 天下統一』には、鄭国の挿話が何回か出てくる。↓

 鄭国(?~?年)。「小国である韓は、秦による東方への侵攻を恐れ、秦に大規模な溝渠事業を実行させて秦を疲弊させようと考えて、水利技術者である鄭国を秦に送り込んだ。鄭国は、咸陽北方の瓠口(現在の涇陽県付近)で涇水(渭水の支流)の水を分けて洛水(同じく渭水の支流)に至らせる溝渠事業を秦王政に説いた。溝渠事業は秦王政即位の翌年、始皇元年(紀元前246年)に開始された。
 始皇9年(紀元前238年)、嫪毐の乱が発生したが、これに前後して、鄭国が韓から送り込まれた間者であることが発覚した。処刑されそうになった鄭国は、間者であったことを認めた上で、溝渠事業の完成はいずれは秦の利になると説得して処刑を免れた(『史記』河渠書)。『史記』李斯列伝は、鄭国の事件が逐客令<(注11)>のきっかけとなったと記すが、この因果関係は疑わしいという見方もある。<(注12)>

 (注11)「外国人追放命令。追放対象については「外国人一般(客)」、とされることもある。李斯はこれに対する反駁の上書を行い、秦王政は撤回した。」
 (注12) 清代の梁玉縄は『史記志疑』において逐客令のきっかけは嫪毐の乱であろうとしており、・・・鶴間和幸・・・も李斯列伝の記述は別個の事件を結び付けたのだろうとしてこの見方に従っている。」

 鄭国は溝渠事業に引き続き従事し、工事を完成させた。
 完成した溝渠は、全長300余里(120km余)に及ぶもので、4万余頃(1頃=1.82haとして72,800ha余)を潤し、灌漑地域に豊かな実りをもたらした。「関中(渭水盆地)は沃野となり、凶年はなくなった」(『史記』河渠書)と描かれる成果を挙げたこの溝渠は、鄭国の名をとって鄭国渠と呼ばれるようになった。司馬遷は、鄭国渠がもたらした豊かさが諸侯を併呑する経済力につながったと評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%9B%BD
 「鄭国渠は古代<支那>の3大水利施設のひとつ(他は秦昭襄王・李氷の都江堰<(注13)>、秦始皇帝の霊渠)と呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%9B%BD%E6%B8%A0

 (注13)「紀元前3世紀、戦国時代の秦の蜀郡郡守李冰(りひょう)が、洪水に悩む人々を救うために紀元前256年から紀元前251年にかけて原形となる堰を築造した。
 李冰は、春の雪解け水が山々から殺到することで岷江が増水し、岷江の流れが緩やかになり川幅が広くなる地点で周囲に水があふれ出して毎年洪水になると判断した。ダムを造ることが一つの解決策であったが、岷江は奥地の辺境へ軍を送る重要な水路でもあるため、ダムで完全に堰き止める案は採用せず、川の中に堤防を作り水の一部を本流から分け、その水を玉塁山を切り開いた運河を通して、岷江左岸の乾燥した成都盆地へ流すことを提案した。
 李冰は昭襄王から銀十万両を与えられ、数万人を動員して工事に着手した。川の中の堤防は、石を詰めた細長い竹かごを川の中に投入して建設され、「榪槎」というテトラポッド状の木枠で固定された。大規模な工事には4年の歳月が費やされた。
 岷江から盆地への運河を山を切り開いて建設することは、火薬や爆薬のない当時の技術では困難であった。玉塁山の岩盤を火で温めた後に水で冷ますことを、岩盤に亀裂が入るまで繰り返しながら少しずつ岩山が崩されていった。8年の工事により 20 m 幅の運河が山の中に建設された。李冰は工事の完成を見ることなく没し、息子の李二郎(顕聖二郎真君のモデルともされる)が工事を引き継ぎ完成させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E6%B1%9F%E5%A0%B0
 「この古代の水利システムは、紀元前3世紀から、歴代王朝によって管理、補強され、手を加えられて中国の民衆の暮らしを支え続けた。工事中には、三国志で有名な諸葛孔明も視察に訪れ、「この堰は、わが国の農業の命…。国力の源である」と語ったという。・・・
 <支那>の民衆は、道教の神々に李冰を加え、その功績をたたえている。・・・
 都江堰・・・の近くには道教の発祥地として有名な青城山(せいじょうさん)の峰々が広がっている。不老不死の秘法を得たという仙人を求めて多くの修行者が集まり、100もの・・・道観と呼ばれる道教の・・・寺院が建立された景勝地。・・・
 山の薬草から漢方薬をつくるのも修行の一環であった。目的は不老不死の仙薬をつくること。時の権力者たちが不老不死を求め、仙薬の開発に力を注いだためである。そしてこの錬丹術の過程の途中、副産物として古代<支那>は火薬を発明したという。」
https://www.ebara.co.jp/waterhistory/vol009.html

⇒一つの疑問は、秦で李冰、李二郎、父子が治/利水に活躍していたというのに、秦で治/利水に係る教育研究の場が設けられず、そこに鄭国が加わったというのに、その状況に何ら変化が生じなかったことだ。
 これは、稷下の学士(後出)に理系の学士が含まれていなかったことへの疑問に通じる。
 結局、これは、古典ギリシャと春秋戦国(諸子百家)時代の支那との最大の違いである、それぞれにおける、理系の学問の存在、不存在、に帰せられるのかもしれない。
 但し、当時の支那で、倫理学、政治学、歴史学等だけが栄えた原因を追究してみても埒が明かない気がする。
 やはり、古典ギリシャ文明が世界の諸古代文明の中の異端児だったのだろう。

 それにしても、「注13」にも出てくるように、諸子百家の時代の後に、迷信に毛が生えた程度の道教が支那で生まれ、その錬炭術の中から、支那の三大発明の一つである火薬が発明されたという説がある、のには苦笑せざるをえない。(太田)