太田述正コラム#13964(2024.1.11)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x5)>(2024.4.7公開)


[東周滅亡]

 『始皇帝 天下統一』での周滅亡に係る箇所が十分呑み込めなかったので、史実を整理してみた。↓

 「西周公(せいしゅうこう)は、戦国時代に現れた周の諸侯。
 紀元前440年、周の考王が弟の姫掲(桓公)を河南(王城)に封じたことにはじまる。これが西周である。
 紀元前367年に東周(鞏)が成立すると、<西周、東周、それに>周王の領土(成周)も含めて周は3分されることとなって、周の弱体化はますます進んだ。
 赧王(たんおう)は、周朝の第37代の王。・・・在位期間は59年であり、周朝における最長在位の君主であった。・・・
 在位中は周王室の影響力<・・すなわち、成周・・>はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定されるようになっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%91%A8%E5%85%AC
 「<その>赧王は西周の武公を頼って西周の河南(王城)に遷都した。祖父の顕王の時代より秦の勢力が急速に拡大しており、諸々の政策でも周の勢力挽回は成功しなかった。
 紀元前307年、秦が韓の宜陽を攻撃すると、赧王は宜陽を救援するために出兵した。
 紀元前256年、秦の将軍楊摎の攻撃を受けて、西周の文公がその領土を秦に献上し[、西周は滅んだ]。
 このため赧王は秦の保護下に入り、まもなく崩御した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A7%E7%8E%8B
 「昭文君<は、>・・・西周の桓公(貞定王の末子)の曾孫と伝わり、祖父は西周の威公で、父は東周の恵公と伝わる。東周の恵公はその兄の西周の恵公と争った。後に宗家の赧王の生前に東周公となった。・・・
 赧王の死後も、昭文君の東周公位あるいは周王位は7年間存続した。周の王権の象徴である九鼎はかれの手中にあり、ある程度の君主権を確立していたとは推定される。ただし九鼎は赧王の死をもって秦に奪われたとする見解もある。
 赧王の死後、<249年に>昭文君は楚の力を借りて六国の諸侯を連合させ、秦を討伐しようとしたが失敗し、その統治する地域は秦に奪われた。昭文君は呂不韋により殺害されたとも、陽人聚に遷されて周宗室の祭祀を継承したとも伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E6%96%87%E5%90%9B

⇒BC「771年に771年に犬戎の遊牧民が首都鎬京を侵略して幽王が殺され」たことに伴い、周が首都を鎬京から東の洛邑(現在の洛陽)に遷都したが、それまでを西周、それからを東周・・春秋時代と戦国時代からなる・・と呼ぶ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%91%A8_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
ところ、戦国時代に出現した上出の西周と東周は、それとは全く異なる代物なので舌を噛みそうになる。
 いずれにせよ、両方の意味での東周が滅亡したのは249年ということになる。
 周の王が、このように、日本史で言えば、天皇化(権威の中枢化)にも征夷大将軍化(権力の中枢化)にも成功せず、一大名として滅んだのは、既に、支那が、殷から周へと少なくとも1回、易姓革命を経験していたことから、「万世一系」の天皇化ができず、春秋時代において覇者として征夷大将軍的なものになることができなかったのは、覇者が諸侯の会盟の盟主に過ぎず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E8%80%85

他の諸侯に対する軍事指揮権/知行権を持たなかったことから征夷大将軍的なものではないことはさておき、周が自ら覇者となる気概と能力を持つ王を一人も輩出できなかった、からだろう。(太田)