太田述正コラム#2860(2008.10.19)
<リューヴェン・ブレナーの歴史観(その2)>(2008.12.7公開)
・・・「民族自決(self-determination)」の原則と「国民国家(nation-states)」の正統性(legitimacy)は第一次世界大戦後勝利の雄叫びを上げたが、これはナショナリズムの歪曲の極致と言うべきか。(人種(race)はもう一つの誤った政治的原則だが、この時点ではまだ創作されてはいなかった。)これらの原則は、中東、就中イラク、において可能性のある解決方法を感知させることを今なお妨げている。・・・
当時の米国の行政府は、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊によって出現した新しい国民国家群が強力なドイツ国民国家への対抗勢力となることを期待していた。同時に米国の行政府は、ナショナリズムが人々を結びつける観念となり、国際的に政治的正統性を認められ、共産主義教義に対する強力な競争相手となることも期待していた。・・・
ウィルソン米大統領の行政府は見込み違いをしていたのだ。この政策はドイツの侵略も、共産主義国家の侵略も防ぎはしなかったのだから。・・・
この国際的に認められた原則は、不満を抱くすべての集団の期待を高めるとともに、「民族自決」の名の下で列強に支援を求めることを可能にしたことで、事態をむしろ悪化させた。かかる期待は、紛争を引き起こし、紛争を早期に解決することを妨げることとなったのだ。・・・
◎私のコメント:以上については、私もほぼ見解を同じくします。ただし、私の縄文モード/弥生モード論とブレナーの静的文明/動的文明論は微妙に整合性がとれない部分があります。これは、日本の歴史の特殊性を意味しているのかもしれません。いずれにせよ、博打的なものを、彼の言うところの動的文明の核心に置こうとするブレナーの考え方は、斬新であり、私自身、大変啓発されました。
続いては、ブレナーと私が見解を異にする部分です。
・・・<法王グレゴリウス7世によって1050~1080年頃に行われた>グレゴリウス改革(Gregorian Reformation)・・・は、西側世界において教会を世俗世界の政治や統治から分離し、僧侶を領主、国王、そして皇帝の支配から解放し<た>。・・・法王グレゴリウス7世は、カトリック教会を、地域的政治コントロールから独立したところの、教育された僧侶からなる中央集権化された官僚機構へと再編成した。この分離は、・・・最初の近代的な西側世界における法制度たる、ローマカトリック教会の「新教会法(new canon law)」の、そしてやがて宮廷、都市等において新しい世俗的法制度の、形成をもたらした。(これはビザンツ帝国では起こらなかった。)
何世紀にもわたって、カトリック教会は、宮廷ないし封建的権威に対抗することができる唯一の機関(institution)であり続けた。そしてしばらくの間、貧しく生まれた人々の上昇移動の数少ない経路の一つとなった。
ローマ法とギリシャ哲学の再発見に加えて、カトリック教会、国王達、諸都市、商人達によって新しい法的空間が創出され、これらの機関が互いに競争し合ったことによって、個人個人は以前に比べて権利を増進させることが可能となった。・・・
<イスラム世界とは>完全に対照的に、西側世界におけるキリスト教学者達は、11世紀と12世紀に、反対の方向に進路をとった。そして、ギリシャの古典と初期のイスラム世界の学者達を再発見した。これらの発見と、商業と法からのいや増す刺激とがあいまって、西欧の議論の言葉が変化し、(ギリシャ語から)「多分(probably)」と「のような(like)」の再導入、そして、しばしば貿易、利潤や「高利貸し(usury)」と関連づけられる形で、確率、機会、リスクに関する複雑な議論の実施がもたらされた。18世紀までには、・・・確率は生活の指針となった。・・・
8世紀から1346年の黒死病まで絶えることなく続いた、西欧における人口の増加に対し、相続で代代受け継がれる地位(status)こそ明け渡すわけにいかないけれど、何らかの対応が必要となった。この人口増は欧州の様相を変貌させ・・・た。1世紀の後、1440年から1480年の間のどこかで、欧州の人口は再び増加を始めた。この人口増が、新しい「動的文明」の核心部分となるところの諸集団を確立することとなる諸制度(institution)を、たゆみなく、だが紆余曲折を経て、形成せしめた。・・・
欧州がその増大する人口を再統合するための解決策を見いだすべく四苦八苦している間、欧州以外の世界は人口史的には相対的に停滞期にあった。・・・
<他方、>イスラム世界、アフリカ、及びラテンアメリカの諸国、並びに・・・バルカン諸国では、現在でもなお「土地」が支配的原理であって、彼らの内なる「静的」諸集団は、「民族的種族(ethnic tribe)」、「純粋セクト」のメンバー以外が「聖なる」地を汚染していると感じている。・・・
<しかし、これらの社会にも人口増の時代が到来したこともあり、これらの社会は不安定化しており、動的文明への転換が課題となりつつある。>
<しかし、>これらの社会では、往々、天から降ってくるマナ(manna)、すなわち「自然資源」・・中東には豊富にある・・が躓きのもととなっている。この種不労所得(windfall)は、たまたま権力の座にある者、ないしは権力を情け容赦なく追求している者、を強化するからだ。・・・
それだけに、資源に乏しいトルコが教会と国家の分離を行った最初のイスラム教国となり、動的文明の諸制度を建設し、EUに加盟する条件整備を行うに至ったことは少しも驚くべきことではない。・・・
◎私のコメント:ブレナーが東欧で生まれ、欧州出身のユダヤ人が中心となって建国したイスラエルで成長し、博士号を取得したことが、アングロサクソン文明と欧州文明とを対置させる物の見方に到達できなかった理由でしょう。
言うまでもなく、権力の分離は欧州史だけでなく、日本史の特徴・・ただし、日本の場合は、宗教(権威)と政治(権力)と富の分離・・でもあります。しかし、この二つの権力分離の文明は、いずれも独力でブレナーが言うところの動的文明へと変貌を遂げることはできませんでした。
この両文明とも、本来的に動的であるところのアングロサクソン文明の豊かさと軍事における卓越ぶりに瞠目し、アングロサクソン文明を模倣することでようやく動的文明への変貌を成し遂げたのです。
ただし、繰り返しますが、博打的なものを、彼の言うところの動的文明の核心に置こうとするブレナーの考え方は啓発的です。
(完)
リューヴェン・ブレナーの歴史観(その2)
- 公開日: