太田述正コラム#13966(2024.1.12)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x6)>(2024.4.8公開)
昨日、表記の第33回まで鑑賞した所、34~68回は有料で一回220円の由。
よって、第33回で鑑賞を打ち切ることにした。
とはいえ、ここまででも、当時の支那の有様があたかもタイムトラベルをしたかのように脳裏に焼き付いたし、私が知らなかった史実も数多く知ることができたので大変有意義だった。
[秦の名君達と名宰相達]
一 前史:穆公
「隣国晋の献公の娘を娶り、その時に侍臣として百里奚が付いてきた。穆公は百里奚を召抱え、以後は百里奚に国政を任せるようになった。・・・
穆公1<4>年(紀元前64<6>年)、・・・出兵して晋軍と韓原で激突し(韓原の戦い)、大勝して<穆姫の異母弟の>恵公を捕虜とした。凱旋して帰ってきた穆公は恵公を祭壇で生贄にしようと思っていたが、夫人の穆姫<(注14)>に止められた。・・・
(注14)姫姓。「先秦時代の男子は氏を称し、女子は姓を称した。姫姓の諸国(周・晋・衛・魏 ・魯・呉など)の王女・公女は「○姫」と呼ばれた。そのため後世では高貴な女姓を姫と呼ぶようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB
「周王室から分家した姬姓の諸国として呉(諸説あり)・燕(諸説あり)・晋(もとは唐、諸説あり)・韓(晋の分家で分岐国、晋と同様に諸説あり)・魏(もとは畢、晋の分岐国)・管・魯・鄭・衛・霍・虢(東虢/西虢に分岐)・曹・蔡・虞・滕・随・韓(戦国の韓とは別国家)・劉などが挙げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB_(%E5%A7%93)
穆公が晋の襄公(文公<(注15)>の子)と戦って大敗し、派遣した秦の三将軍が捕虜になってしまった。
(注15)「穆姫の死後、穆姫の<もう一人の異母>弟の公子重耳が秦の援助を得て晋に帰国し、晋侯として即位した。これが晋の文公である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%A7%AB 前掲
晋の襄公は三将軍を斬ろうとしたが、その母、つまり文公の夫人は秦の穆公の娘であった。その為命乞いをした。「穆公は三人を恨むこと骨髄に徹しています。どうか三人を秦に帰し、秦の君に思う存分に煮殺させてください」という母の言葉に従い、襄公は三将軍を秦に帰した。三人が帰ると穆公は郊外に出迎え、「老臣たちの忠言を聴かずに出兵したわたしが悪かった」と泣いて謝り、三人を許した。この故事がもとになり、徹底的に人を恨むことを「恨み骨髄に徹す(または入る)」という句が生まれた。・・・
<その後、>穆公<は、その>36年(紀元前624年)、・・・晋を討ってこれを大いに破り、西戎を討って西戎の覇者と認められた。・・・
春秋五覇の一人に数えられる事もある。
また、百里奚・・・等の異邦の異才を登用して国力を増強させた事は、はるか後の商鞅や張儀・范雎等の異国の異才達による秦の天下統一への道筋の先鞭ともなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
百里奚:「百里奚は楚の出身と言われているが、・・・許との説もある。・・・
献公の娘の穆姫が秦の穆公に嫁ぐことになり、<下僕にされていた>百里奚はその召使いとして秦に入国した。ある日のこと、穆公の家臣の一人が百里奚と政治について語り合い、その賢哲を知って「百里奚を宰相に据えれば秦は千里を拓くでしょう」と言って穆公に推挙した。百里奚はこれを嫌って国外へと逃亡し、楚に流れて奴隷とされたが穆公の家臣に見つけ出され、羊の皮5枚(五羖)で買い戻され、秦に連れ戻された。これに由来して百里奚は五羖大夫と号するようになった。
穆公は連れ戻された百里奚と国事について三日三晩語り合い、彼に国政をあずけることを決めた。ときに百里奚70余歳。
百里奚は徹底した徳政を行い、周辺諸国を慰撫する政策をとった。これにより周辺の10カ国が秦に服属することを申し出で、百里奚は文字通り千里(1国=百里、10国=千里)を拓き、国力を大いに増大させた。このことは、始皇帝の代に秦が中国を統一する基盤となった。
また清廉潔白で、冬でも外套を着ず、国内を巡察するときは衛兵に武器を持たせなかったという。・・・
百里奚が宰相になったとき、すでに90歳を越えていたものと思われ、死んだ・・処刑された可能性<あり>・・ときは100歳近かっただろうといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%87%8C%E5%A5%9A
⇒当時の晋も後の楚も、その時における秦の隣国たる支那の(秦を別として)最大国であり、そういった国と何重もの姻戚関係を結ぶことは防衛という観点からはともかく攻勢という観点からは足かせになったということが良く分かる。
また、外国人を登用することなくして内外政策のよろしきを得られなかったということは、秦国内での人材の教育・登用制度に問題があったことを意味すると同時に、登用された外国人達は論理必然的にかかる問題の解消に取り組まない・・それでもなお百里奚は内部から足を引っ張られて殺された可能性が高いことを思え・・、以上、秦において、その節目節目で外国人を登用せざるをえない状態が続く結果をもたらしたと考えられる。
他方、秦の強味は、楚や呉越両国と同様、その中心部が中原から離れた場所にあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Chunqiu_map-zh-classical.png
ことから、中原諸国からの脅威に対抗しやすかった上に、楚や呉越両国とは違って、三方からの不断の夷狄の脅威に対抗する必要があって、常に軍が一本化され臨戦態勢に置かれることになり、かつ、戎狄がもたらす最新の装備や戦術を導入せざるをえなかった結果、精強な軍を維持し続けることとなった点にあったと考えられる。(太田)
(続く)