太田述正コラム#13970(2024.1.14)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x8)>(2024.4.10公開)
またかつて親友であった魏の総大将である公子卬を欺いて招き、これを捕虜にして魏軍を打ち破り黄河以西の土地を奪った。危険を感じた魏は首都を安邑(現在の山西省運城市夏県)から東の大梁(現在の河南省開封市)に遷都し<た>。
この功績により公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる。・・・
紀元前338年、孝公が死去し、太子駟が即位し、恵文王(この時点では恵文君)となった。この時にかねてより商鞅に恨みを持つ新王の後見役の公子虔・公孫賈ら反商鞅派は讒訴し、商鞅に謀反の罪を着せようとした。恵文王も太子時代に自分を罰しようとした商鞅に恨みを持っていたので、危機を悟った商鞅は慌てて都から逃亡し、途中で宿に泊まろうとしたが、宿の亭主は商鞅である事を知らず、「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」とあっさり断られた。商鞅は「法を為すの弊、一にここに至るか」(ああ、法律を作り徹底させた弊害が、こんな結果をもたらすとは…)と長嘆息し、いったん魏に逃げるが、公子卬を騙した事を忘れていない魏は、軍を発し即座に国内から追放した。仕方なく商鞅は封地の商で兵を集めたが、秦の討伐軍に攻められて戦死した。・・・
⇒商鞅に百里奚の最期についての噂くらいは伝わっていたであろうに、自らの進退のタイミングを誤ったということは、彼は一流の経世家ではあっても一流の策略家や軍師ではなかったということなのだろう。(太田)
秦はそれまでは内陸奥地の起源を持ち、<支那>中央とはやや異なった風習でもあり、野蛮国と見なされてきた。しかし彼によってそういった面は改革され、さらに魏に勝ったことで強国として一目置かれることとなった。
また、恵文王以降の秦の歴代君主は商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した・・・このため王と法の元にひとまとまりとなった秦は、門閥の影響が強く纏まっていなかった楚などを着実に破っていく。最終的に秦が戦国時代を統一できたのは、商鞅の法があったためと言っても過言ではない。・・・
なお、伝説的ではあるが、蘇秦<(注20)>はその弁舌を生かす活動を始めた際、まず周を訪れたが相手にされず、次に秦を訪れた。
(注20)そしん(?~BC284年?)「張儀と並んで縦横家の代表人物であり、諸国を遊説して合従を成立させたとされる。・・・
斉は燕の領土を奪い、秦と並ぶ二大強国となっていた。そこで諸国はこの2国のどちらと同盟するかという対応に迫られた。また燕は斉への復讐を企てていた。この時に燕に登用されたのが蘇秦であり、斉への使者となった。さらに斉でも外交官となって合従のために奔走するが、実は燕のために斉と趙の離間を図っていた。その結果、まず紀元前288年に燕・斉・趙・韓・魏の5国が合従して秦を攻めたが、5カ国連合軍は退却した。次に紀元前284年には今度は燕・趙・魏・韓・楚の5カ国が合従して斉を攻撃し(済西の戦い)、燕は復讐を果たすのである。・・・
後に故事成語として知られる「鶏口となるも牛後となることなかれ」という言辞を述べた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E7%A7%A6
彼は恵<文>王に「軍事教練を強化すれば、帝と称することが出来るようになる」と説いたという。しかし王はこれを拒否した。その理由の一つが商鞅を処刑した後であり、弁舌の士を嫌ったのだという。蘇秦はその後合従の連盟を作ることに成功し、そのために秦は15年にわたって国外に出られなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85
⇒『史記』の蘇秦の記述には史料不足による誤りが多いことが分かってきた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E7%A7%A6 前掲
というが、仮に、蘇秦が本当に(精強な軍を擁する)秦の恵王にそんなことを言ったのだとすれば、蘇秦が起用されなかったのは、単に蘇秦の言がナンセンスだったからに相違ない。(太田)
(続く)