太田述正コラム#13982(2024.1.20)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x14)>(2024.4.16公開)


[墨家の思想(再訪)と始皇帝]

 「始皇帝による支那統一をもたらしたイデオロギーは一体何なのでしょうか。それは、墨子(支那戦国時代(BC403~BC221年)の人。生没年は不詳)に始まる墨家の思想ではないか、と私は考えています。」(コラム#1640)と記したことがある(注29)が、「映画評論114:始皇帝 天下統一」シリーズにおいて、(映画中にはもちろんのこと、)登場人物等に係るウィキペディア類に、これまで墨子(注30)ないし墨家への言及は一切出てこないし、(残りの各回を鑑賞することは当分の間ありえないが)恐らく最後まで出てこないのではないかと思われる。

 (注29)吉永慎二郎秋田大名誉教授の説に拠っている。
 (注30)BC470?~BC390年?。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90

 まずはコラム#1640を読み返していただきたいが、ここで、少しだけだが吉永説を補足しておく。↓
 「戦国中期の諸侯の称王期に墨家の最盛期が在り、諸侯称王の論理を提起したのは墨家学派である<。>・・・吉永慎二郎」
https://researchmap.jp/read0169015/research_projects/845909
「(1)、孟子<(注31)>の中核思想である「仁義」や「王道」「先王之道」も、先行する墨家思想の刺激と影響なしには形成され得なかったこと、仁義を併称するのは墨家に出ずることが明らかに<し>た。

 (注31)BC372?~BC289年?。「鄒国(現在の山東省済寧市鄒城市)の人で・・・孔子の孫である子思の門人に学んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90
 「鄒<国は、>・・・春秋時代までは邾(ちゅ)国と呼ばれ、戦国時代、鄒と改める。[紀元前369年から紀元前340年の間に楚に併合され]・・・た。」
https://kotobank.jp/word/%E9%84%92-540370
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%BE ([]内)
 ちなみに、孔子が生まれ、その若年時までと晩年に仕えた魯は、紀元前249年に楚に併合された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF

 (2)、孟子の「聖人」の概念の展開は墨家の「聖王」の概念を媒介としてなされていること<を>論証<し>た。
 (3)、孟子の民本思想には墨家の<天ー聖王ー満民>の満民思想の影響が見られる・・・。しかしながら孟子は「萬民」の用語を避けて「民」の語を専ら用いて独自の民本思想を展開している・・・。
(4)、墨家の聖王思想は前四世紀後半の戦国諸侯の「称王」という周の支配原理を否定する挙を理論的に正当化する役割を担うものであったこと<を>解明<し>た。したがってこの「称王」の後に活躍する孟子の王道論が墨家の聖王思想の影響を被ることは歴史的状況からも避けがたいこと<を>明らか<にし>た。
 (5)、「左傳」の資料性の検討を踏まえて、その記述から周の秩序規範として「命」が作動していたことを明らかにし、これに対して墨家の聖王思想の基底にある「非命」はこの周の「命」を否定する思想であること<を>解明<し>た。そして思想史的には孟子の役割は墨家の「非命」に対して再び「命」の思想を正当化せんとするものであったこと<を>明らかに<し>た。・・・吉永慎二郎」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-07610012/

 他方、映画の中では、まるで、日本の戦国時代末を扱ったNHK大河ドラマ同様、戦乱の時代を終わらせ平和を確立するためには天下を統一しなければならない、的な発言が秦王政(始皇帝)らによって繰り返しなされる。
 これは、少なくとも、中共当局が、戦国時代末の代々の秦王の最大の行動原理は墨家の思想である、と見ていることを示している。
 実際、まさにそうだったのではないか、と、私自身、考えるに至っている。
 (墨子は、非戦論/平和主義を唱え、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E6%94%BB
かつ、墨子・尚同篇で、「国君は・・・国の義・・<何が>善<で何が>不善<か>・・を統一でき<て、初めて>・・・国は治まるのである。」(コラム#1640)と主張している以上、王と自称する者は、天下(華夏)の義を統一しなければならず、それは論理必然的に天下(華夏)の統一によってしかなしえない。)
 だとすれば、当然、秦王政(始皇帝)も同様であったはずだが、下掲の「事実」↓

 「『呂氏春秋』に「孔墨之後学、顕栄於天下者衆突。不可勝数。」(仲春紀、当染)とあり、『韓非子』に「世之顕学、儒墨也。」(顕学)とあ・・・<る>ように、墨家は先秦の思想界における一大勢力であった。」(「墨家の孝説について–儒家による批判を中心に–」より)
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61058/cks_034_021.pdf

を踏まえれば、彼が、『呂氏春秋』の該当箇所を読んだ可能性は大だし、「始皇帝を感激させた・・・韓非子<の篇>は「孤憤篇」「五蠹篇」の二篇である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E9%9D%9E%E5%AD%90
らしいとはいえ、「顕学篇」だって読んだ可能性はあり、いずれにせよ、そういった墨家への諸言及に促されて、『墨子』を直接読んだ可能性すら大いにある、と、私は想像するに至っている。

(続く)