太田述正コラム#13988(2024.1.23)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x17)>(2024.4.19公開)
この歴史観を五徳終始説(終始五徳説とも)という。五徳終始説は五行思想の一種にあたる。・・・
始皇帝は秦を水徳の王朝とし、水と対応する色の黒や数字の六を国の諸制度で強調させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%92%E8%A1%8D ([]内も)
⇒始皇帝が信じていたのはあくまでも墨家の思想であり、鄒衍の思想は広報宣伝用のイデオロギーとして用いたにとどまる、というのが私見だ。
というのも、「鄒衍は、この世界は大海に囲まれた九つの州(大九州)からなり、その大九州それぞれの内部に小九州があるとした。そして、儒家のいう「中国」はその小九州の一つ「赤県神州」でしかなく、したがって「中国」は世界全体の1⁄81に過ぎないと主張した」(上掲)にもかかわらず、この1/81の「小世界」の統一を果たしてからは、既存の万里の長城を、補修し、(旧秦地区の北のオルドス地方の北方に向けて)延長し、ただけで、この小世界内にとどまることをもってよしとし、将軍蒙恬を派遣してこの小世界から匈奴の武装勢力を駆逐するのに成功した後は、(強敵のいなかった南方への進出はさておき、)外征を行わなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-073.html ←秦
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-093.html ←匈奴
からだ。
但し、始皇帝が「用いた」ことは事実であり、そのことが支那のその後の歴史に負の影響を及ぼすことになった、と、思う。(太田)
[炎帝・黄帝]
映画「始皇帝 天下統一」では、毎回、冒頭で、炎帝と黄帝への言及がなされる。
炎帝ないしは炎帝神農と黄帝は、伝説では異母兄弟であり、「神農の末裔たち炎帝神農氏は黄帝との衝突ののち合併・融合した。この子孫が後の漢族とみなされている。・・・
人々に医療と農耕の術を教えたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BE%B2
「本来は「皇帝」と表記されたが戦国時代末期に五行思想の影響で[五帝・・黄帝・顓頊(せんぎよく)・帝嚳(ていこく)・尭・舜・・の最初の]「黄帝」と表記されるようになった。・・・
彼以降の<堯、舜、禹らや>夏・殷・周・秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、<支那>に<邑制>国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろうと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B8%9D
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E7%9A%87%E4%BA%94%E5%B8%9D-70649 ([]内↑↓)
ところが、「秦王政(すなわち始皇帝)は前221年に<支那>全土を武力で統一し,史上初めて<支那>内で唯一の王となると,それにふさわしい王号を烝相以下に命じて論議させた。丞相王綰(おうわん)らは古代に[三皇、すなわち、]天皇,地皇,泰皇<(注33)>があり,泰皇が最高であるから泰皇とすべしと奏上したが,政はみずから皇帝の号を採用して王の尊号と定めた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E5%B8%9D-62783
ところ、映画では、炎帝と黄帝に加えて泰皇に言及されても不思議ではないのに、秦王政は黄帝の「旧称」を採用したとみなしたということか、言及されていない。
(注33)「人皇は地皇から<、また、地皇は天皇から>生まれたとされる。泰皇(たいこう)とも呼ばれるが、人皇と同一視するか否かは諸説存在する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%9A%87
「戦国時代末に,伝説的な帝王を3人あるいは5人にまとめる考えがあり,天皇・地皇・人皇(泰皇ともいう)の三皇説があらわれる。・・・
三皇を五帝より古い時代として,五帝の前に置いて歴史を構成するようになるのは,三国時代(3世紀)以後のことである。しかし歴史的な物語としてまとめられたのは五帝が早く,漢代前半にまとめられて,夏・殷・周3代の前に置いて,歴史に繰り込まれたのに対し,三皇はそれから残った伝説が,あまり人為を加えられずにまとめられたものである。」