太田述正コラム#14000(2024.1.29)
<映画評論115:孫子兵法(その1)>(2024.4.25公開)
1 始めに
シリーズの『陸海の工作–明朝の興亡』の次に取り上げるべき本が決まらなかったのですが、中共製連続TV映画の「始皇帝 天下統一」で味を占め、Amazon Primeで同様のTV映画を探したところ、男女の視聴者に共にウケそうな則天武后やら楊貴妃やらを取り上げたもの以外は、孫子兵法(2008年)、大秦帝国(2009年)、明朝皇伝(2018年)、コウラン伝 始皇帝の母(2019年)、大明皇妃 -Empress of the Ming(2019年)、といった具合に、やはり、秦や明ものが人気がある中に、やや異質の「孫子兵法」が混じっているのが目に留まり、これを取り上げることにしました。
「海音寺潮五郎<は> 『孫子』<を書いたが、>・・・史記・孫子呉起列伝は簡潔すぎて書きようがなく、兵法書・孫子から類推して人物造形を行ったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A6 ☆
というわけで、このTV映画(全41回)
https://www.amazon.co.jp/%E5%AD%AB%E5%AD%90%E5%85%B5%E6%B3%95/dp/B0981C8XMP
も、大部分はフィクションだということになるけれど、金谷治は、「1972年、山東省臨沂県で発掘された一群の銀雀山漢簡で『孫子兵法』十三編と、孫臏の著した兵法書(『孫臏兵法』)の竹簡が発見された。さらに分析の結果『孫子』十三編は『孫臏兵法』とは別物であることが証明され、孫武の実在が確かめられた」としており(☆)、孫子が生きていたであろうとされる頃の支那(華夏)の地誌や(関係人物群を含む)歴史を視覚的に学べると思った次第です。
2 本題
孫武(BC535頃~?年)は、「斉国の大夫で後に田斉の公族・田氏・・・である」とされている(☆)ことから、孫武を、斉(姜斉)の景公<(注1)>、宰相晏嬰<(注2)>、大司馬となる田穰苴<(注3)>、らと絡ませる形でこのTV映画は始まります。
(注1)?~BC490年。在位:BC547~BC490年。「斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。だが、時に諫言も行う晏嬰を遠ざけることなく重用したことは功績と言える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%85%AC_(%E6%96%89)
(注2)あんえい(?~BC500年)。「霊公・荘公光・景公の3代に仕え、上を憚ることなく諫言を行った。・・・
最初に仕えた霊公の時期、町の女性の間で男装をすることが流行り、霊公はこれを止めさせたいと思って禁令を出した。しかし、もともとこの流行は霊公の妃から始まったのであり、霊公は相変わらず妃には男装をさせていたので、流行は収まらなかった。そこで晏嬰は「君のやっている事は牛の頭を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります」と諫言し、その通りにすると流行は収まった。このことが「牛頭馬肉」の言葉を生み、後に変化して故事成語の「羊頭狗肉」になる。・・・
晏嬰は斉の宰相として管仲と並び称され、春秋時代を見渡しても一、二を争う名宰相とされている。司馬遷は『史記』列伝において最初の「伯夷・叔斉列伝」の次に「管晏列伝」(管仲と晏嬰)を持ってきている。さらには「(晏嬰の)御者になりたい」とまで語っており、尊敬の大きさが見て取れる。また、その言行録として『晏子春秋』があり、その中には様々な逸話が載っている。
孔子も「平仲(晏嬰)は善く人と交わる。久しくして之を敬す」と褒めているが、孔子には晏嬰に対して否定的な評も多い。ただ孔子は斉に仕官しようとして晏嬰に止められたということがあり、これが影響していると考えられる。同じく儒家である孟子も晏嬰を認めず、管仲・晏嬰を評して「(覇道によって天下を治めるのは)自分の目指すところではない」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8F%E5%AC%B0
⇒春秋戦国時代に儒教が主流たりえなかったのは、戦乱がうち続く時代には合理的・科学的・・覇道的!・・に政治や軍事に取り組まないと、即、地位や国を失いかねなかったからでしょう。
名宰相だった晏嬰の「民を尊しと為し、社稷は之に次ぎ、君を軽しと為す」という合理的・科学的な考えを明文化した孟子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8F%E5%AD%90%E6%98%A5%E7%A7%8B
が、積極的に天命説(革命説)を唱えたが故に宋代に至るまで余り高く評価されなかったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90
が想起されます。(太田)
(注3)田穰苴(でんじょうしょ。?~?年)。「当時の斉は長い内乱の果てに景公が即位し、名臣の名高い晏嬰がその補佐を勤めていた。また陳からの亡命貴族である田氏の勢力が急激に膨張しており、それにたいする旧来の貴族からの嫉視・警戒が強まっていた。そのようななか、斉は晋と燕により攻められ、領土を奪われ、景公はこれを何とかしたいと思っていた。これに対して晏嬰が推薦したのが<田>穰苴である。・・・
晋・燕の軍は撤退しはじめ、<田>穰苴はこれを追撃し、失地をすべて回復した。凱旋した<田>穰苴<を>景公は・・・大司馬に任命した。・・・
「将、軍に在っては、君令も受けざる所有り」(将軍が軍中にいる時はたとえ主君の命令であろうとも受けない事がある)と言う有名な言葉を残し<ている。>・・・
兵法書『司馬法』の著者。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E7%A9%B0%E8%8B%B4
「「司馬法」<より。>
・人を殺して人を安んじられるなら、殺してもかまわない。
・戦争によって戦争を止めるなら、戦争してもよい。
・国が大きくても、戦争を好めば必ず滅ぶ。
・天下が安らかでも、戦争を忘れれば必ず危うい。」
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E7%A9%B0%E8%8B%B4
⇒孫武の頃の斉には、田穰苴もそうですが、合理的・科学的・覇道的、・・更にこれらを近代的、と言い換えることができます・・な物の見方、考え方をする指導者が何人もいたようですね。
(続く)