太田述正コラム#14014(2024.2.5)
<映画評論115:孫子兵法(その7)>(2024.5.2公開)


[柏挙の戦い]

 「孫子 兵法」を鑑賞していなければ、この有名な戦いのことを殆ど知らないまま私は生涯を終えていたことだろう。↓

「紀元前506年に・・・春秋時代の2つの主要な国である呉と楚の間で起こった、天下分け目の戦いであった。呉軍は呉王闔閭、弟の夫概、楚から亡命した伍子胥が率いていた。司馬遷の『史記』によると、『孫子』の兵法の著者である孫武は、呉軍の司令官であった<。>・・・
 呉は元々、春秋時代に大きな力を持つ楚の東にある小さな国だった。楚は北にある大国の晋とたびたび争っていた。晋は楚の拡大を阻止するために呉と手を組み呉の兵を鍛え、戦車の使い方を教えた。呉は次第に力をつけ紀元前584年には初めて楚を破り、州来を併合した。この後70年の間に10度戦い大半を呉が勝利した。・・・
 呉軍は淮河から船を出し、漢江の東岸へと向かった。これに対し嚢瓦<(注13)>と司馬の沈尹戌は呉と向かい合い漢江の西に楚軍で率いた。

 (注13)のうが。「<楚の>荘王の子の公子貞(子嚢)の孫にあたる。・・・
 楚の平王が死ぬと、・・・嚢瓦は太子を楚の昭王とした。・・・楚の人々の不満が嚢瓦に溜まったので、嚢瓦はその後沈尹戌の助言を受け入れ費無忌を殺した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9A%A2%E7%93%A6

 沈尹戌が出した案は嚢瓦が漢江沿で主要軍を率いて防衛、沈尹戌が楚の北の国境にある方城の軍を率いて淮河に残された呉船を破壊し呉軍の3つの退路を塞ぎ、呉軍を挟み撃ちにするというものだった。嚢瓦は計画を受け入れ沈尹戌は方城に出発した。しかし、沈尹戌が出国後、史皇は嚢瓦に「楚の人々はあなたを憎み、沈尹戌を好いています。沈尹戌の計画に従えば、沈尹戌は勝利と信用を勝ち取りあなたの運命は決まるでしょう」と言った。嚢瓦は川を渡りすぐに攻撃することにした。両軍隊は小別山(現在の漢川の南東)と大別山の間で3度戦い、呉軍は勝利した。・・・
 11月19日(旧暦)、両軍は柏挙に布陣した。夫概<(注14)>は闔閭に攻撃の許可を求め、嚢瓦は無能で兵士には戦う気力がなく、攻撃すれば逃げるはずだと述べた。

 (注14)闔閭の弟。「紀元前505年、兄が呉越の戦いの最中に、こっそりと陣払いをし、自立して呉王を名乗ったが、戻ってきた闔閭の兵に敗れて、楚に亡命した。その後、楚から領土の堂谿を与えられて、その子孫は堂谿氏と称した。
 『広韻』には、百済王の扶余氏は「・・・呉の夫概から出た扶余氏」と記録されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E6%A6%82

 闔閭は拒否したが、夫概は従わず私兵5000で攻撃した。予想通り楚の兵は逃げ、・・・嚢瓦は鄭に逃げた。夫概は楚軍を清発川へと追いやり、彼らの半分が川を渡るまで待ってから再び攻撃して敗北させた。その後、呉軍は食事をしていた楚の兵士に追いつき雍澨<(ようせい)>川で再び楚を破った。楚の兵士たちは逃げ出し、呉軍は彼らの食事を食べ、沈尹戌の追跡を再開した。沈尹戌は楚軍が敗れたことを知り、兵を救うため、まず夫概を破った。しかし、楚軍は呉軍に囲まれ負傷し、勝つ見込みがないと考えた沈尹戌は部下の呉句卑に首を楚の国都郢に持ち帰るように命じた。5度の戦いに全て敗戦した楚軍は壊滅した。
 前線の敗戦を知った楚の昭王は、・・・主な武官の反対や民の生存を無視し少数で逃げ出した。・・・11月29日、呉軍は郢に入ると焼き討ち・虐殺・略奪と呉軍の残虐行為は続いた。楚の兵と民は重傷を負い、首都は壊滅させられ楚は<一旦>滅亡した。・・・この戦いは孫武を天下に知らしめた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E6%8C%99%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒日支戦争の時に日本軍の攻撃を受けた南京を逃げ出した蒋介石を思い起こさせるが、蒋とは違って、昭王はまだ若年だった・・「孫子 兵法」制作陣はそう考えている・・とすれば、責められないかも。
 それはそれとして、問題の一つ目は、柏挙の戦いに孫武が参加していたと書かれているのは『史記』だけ(上掲)であり、これは『孫子』が有名になって、その著者とされる孫武がこの戦いに参加したとの後付けの伝説ができたのを司馬遷が鵜呑みにしてそのまま記している可能性があることだ。
 これは、一事が万事、『史記』内の「史実」全体への疑いを生じさせると言えよう。
 実際、『史記』に記されている「史実」を否定する考古学的発見が暇がないほど出てきている。(典拠省略)
 問題の二つ目は、『春秋左氏伝』の記述のようだ(上掲)が、この戦いにおける呉の戦力が30,000人、楚の戦力が200,000人で、楚は壊滅的損害を被ったということになっていることだ。
 そんなことは、戦術の巧拙を超えて、およそありえない話であり、『春秋左氏伝』成立時期
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%B7%A6%E6%B0%8F%E4%BC%9D

いかんにかかわらず、漢人の、白髪三千丈癖、ないし、(孫武等の例外を除いた)軍事音痴、の例証の一つと言えそうなことだ。(太田)

(続く)