太田述正コラム#14016(2024.2.6)
<映画評論115:孫子兵法(その8)>(2024.5.3公開)

 「孫子 兵法」は若年期の楚の昭王(注15)を暗愚に描いていますが、少なくとも成年後に関してはなかなかの人物だったようです。
 その子の恵王(注16)が傑物だったこともあり・・。↓

 (注15)昭王(?~BC489年。在位:BC516~BC489年)。「<楚の>平王と伯嬴のあいだの子として生まれた。・・・
 平王が薨去すると、楚王として即位した。昭王元年(紀元前515年)、楚人に憎まれていた費無忌を粛清して人気を取ったが、東方の呉による連年の侵攻に悩まされるようになった。
 昭王10年(紀元前506年)、柏挙の戦いで楚軍は呉軍に大敗し、呉軍が都の郢に攻め入ったので、昭王は郢を脱出して随に逃れた。楚の使臣申包胥は秦を訪れ、<母方の祖父の>哀公に救援を求めたが、哀公は当初これに応じなかった。そのため、申包胥は秦の宮廷の庭で7日7晩にわたって泣き続けた。哀公はその忠誠心に感じ入り、ついに楚に援軍を出した。これにより楚は呉軍の撃退に成功し、昭王は郢に戻ることができた。帰国した昭王は・・・近臣らと力を合わせ、楚の復興に務めた。同時に呉と対立していた越王の勾践と同盟し、勾践の娘を妻に迎えている。・・・
 后妃<は、>貞姜<と>越姫」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 「申包胥(しんほうしょ)は、春秋時代の楚の政治家・公族。姓は羋<(み)。>・・・平王、昭王、恵王の3代に仕え、呉の尖兵となったかつての僚友伍子胥に抗した。
 伍子胥が楚にいた頃、友人として親しく交遊したが、平王7年(紀元前522年)、子胥の父兄が主君の平王により誅殺される事件が起きる。復讐をするために楚を出奔する際、楚を必ず転覆させると誓う子胥に対して、包胥は私は必ず存続させると言い袂を別った。
 後に呉の将軍となった伍子胥は、昭王10年(紀元前506年)の柏挙の戦いにおいて楚を陥れ、すでに死去していた平王の墓を暴き、屍を三百回鞭打った。
 この苛烈な所業に対して、山中に逃れていた包胥は人を遣わし問いただした。
君の復讐はなんと酷い事か。私は聞いた事がある、一時の凶暴が天に勝とうとも、天が定まればいずれ破られると。君はかつては北面し、平王に仕えた身だ。その屍を辱めるとは、いずれ天が定まれば、人の凶暴など長くはないのではないか?
 この詰問に対して子胥は「日・・・暮れて道・・・遠<し>、故に倒行してこれを逆施するのみだ(私には時間がなく、道理に従って物事を進める事ができなかった)」と弁明した。・・・
 時は下って恵王13年(紀元前476年)、申包胥は恵王の母の父に当たる越王勾践の元へ使者として来朝する。この時期は越が呉を滅ぼす最終段階に入っており、申包胥は勾践から呉を倒す為の諮問を受ける。いくつかの問答を交わした後、申包胥は「戦は知を第一とし、仁が第二、勇が第三です。」と勾践に進言する。これが決定打の一つとなり、勾践は呉を滅ぼすことに成功する。申包胥は祖国を蹂躙し、親友の伍子胥を用済みとして抹殺した仇敵の呉を滅ぼす一助を成したのである。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E5%8C%85%E8%83%A5
 「貞姜<(ていきょう)は、>斉の公女<で>・・・昭王の夫人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E5%A7%9C
 「越姫<(えつき。?~BC489年)は、>・・・越王勾践の娘として生まれ<、>・・・昭王の側室<になったところ、昭王の子でその後を継いだ>恵王の母。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%A7%AB
 (注16)恵王(?~BC432年。在位:BC489~BC432年)。「恵王16年(紀元前473年)、越王勾践が呉を滅ぼすと、楚の東方進出の障害が取り除かれた。
 恵王42年(紀元前447年)、楚は蔡を滅ぼした。恵王44年(紀元前445年)、楚は杞を滅ぼし、秦と和平を結んだ。恵王時代の楚は東方に領土を広げて、泗水のほとりにまで達した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)

⇒昭王は、事実上、2人の妃を持ったとも、妃を持たなかったとも言えそうであり、妃を持たなかった始皇帝には、昭王のことが先例として念頭にあったのかもしれませんね。
 なお、越姫は重病になった昭王の身代わりにと願い自殺し、また結局その昭王も病没してしまったけれど、昭王の念頭にあった3人の異母兄達の誰も後継になることを肯んじず、彼らは、このように立派な母の子であれば、と、越姫の子の熊章を楚王に擁立した、とされます。(上掲)(太田)

(続く)