太田述正コラム#14022(2024.2.9)
<映画評論115:孫子兵法(その11)>(2024.5.6公開)
[柏挙の戦い当時の周]
気になったので、表記を調べてみた。↓
景王(?~BC520年。在位:BC545~BC520年)。「<周の>景王は王子朝とその傅役の賓孟を気に入っており、景王と賓孟は王子朝を太子に立てようとしたが、劉献公の庶子の劉文公が賓孟を憎み、これに反対していた。
紀元前520年4月、・・・死去した。3日後に劉献公が死去し、劉文公が後を嗣いだ。・・・劉文公<ら>は<もう一人の景王の子である>悼王を擁立した。6月の景王の葬儀のときに王子朝は反乱を起こすこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)
悼王(?~BC520年。在位:BC520年)。「単穆公は晋に危急を伝えた。・・・劉文公は劉に赴いた。・・・<しかし、>単穆公と劉文公は悼王の軍を率いて・・・戦って敗れた。11月、悼王は暗殺され、<悼王の弟の>敬王が即位した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%BC%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)
敬王(?~BC476年。在位:BC520~BC476年)。「周は平王より洛邑を都城に定め王城と称していたが、敬王の代に王子朝の勢力が強い悼王までの都を避け、東(漢代の雒陽城、すなわち、現在の漢魏故城の辺り)に遷都した。遷都した新しい都城を成周、旧都を王城と称すようになった。・・・
敬王<は>・・・晋軍<とともに戦い、最終的に、>紀元前516年<、>・・・王子朝は楚に亡命した。・・・
紀元前504年、周の儋翩が王子朝の残党を率いて、鄭人の協力を得て成周で反乱を起こし・・・平定<したのは、>・・・紀元前502年<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E7%8E%8B
王子朝(?~BC505年)。「紀元前517年夏、晋の趙鞅の主導により、魯・宋・衛・鄭・曹・邾・滕・薛・小邾の人々が黄父で会合し、王室の内紛を収拾するための善後策を協議した。・・・
紀元前516年・・・11月、晋軍が王子朝側の鞏を攻め落とした。・・・王子朝<は>・・・周の典籍を持って楚に亡命した。・・・
紀元前505年春、王子朝は楚で周王室の人に殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AD%90%E6%9C%9D
⇒「周(西周)が<一旦>滅亡した翌年の前770年、<周は>都を[鎬京から]洛邑に遷して東周となった。その周の東遷から周が秦に滅ぼされ(前256年)、秦が<支那>を統一する前221年までを「東周」または「春秋戦国時代」という。その前半の前403年までを「春秋時代」というのは、孔子が編纂したという魯(周の文王の子、武王の弟の周公旦が建てた国)の年代記である『春秋』(厳密には前722~479年)に記録されている時代だからである。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-027_1.html
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-029_1.html
と、西周と春秋時代を、都の移転によって画しているのだから、春秋時代と戦国時代についても、『春秋』によってこの2つの時代を画すのではなく、BC516年における、洛邑から成周への移転、をもって、戦国時代の始め、としてもよいのではなかろうか。
(「西周代における「「都」としての属性を持つ特定の土地の存在」自体を否定する見解」
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/637/637PDF/tani.pdf
もあるようだが、少なくとも西周時代ならぬ東周時代に関しては、もはやかかる見解は成り立たないのでは?)
とまれ、呉と楚との間の柏挙の戦いのあったBC506年においては、周は、小康状態であったものの、それは、敬王と王子朝との間での長期にわたる熱戦の中のしばしの冷戦期にあったに過ぎず、その戦いの当事者たる周の敬王らが呉や楚の問題に口を挟む余裕など皆無だったことだろう。
すなわち、当時、既に周は名存実亡状態になっていたのであり、これぞ戦国時代、と言ってしかるべきではなかろうか。(太田)
(続く)