太田述正コラム#14024(2024.2.10)
<映画評論115:孫子兵法(その12)>(2024.5.7公開)


[姜斉と田斉]

 このあたりで、孫氏の出身であるところの、田氏について、まとめておこう。↓

「田氏は陳の公子の田完の子孫であった。陳で内乱が起きると田完は斉に亡命し、桓公により工正(百工を統率する)に任命された。田完の5代後田桓子(陳無宇)は景公から欒氏と高氏の領地財産を与えられるが、晏嬰の勧めでそれらを辞退し、高唐を与えられた。陳無宇は交通の要衝であるこの地を得たことで、経済的に強大化していった。
 田氏の子孫の田穰苴(司馬穰苴)<(前出)>は晋、燕の両軍を破り失地を取り戻した。この功により大司馬に任命された。田氏の勢力が拡大することを危惧した高張と国夏は景公に諫言し、司馬穰苴は免官された。・・・田僖子(田乞)<(注19)>は高氏と国氏の両氏と親交を重ねたが、その一方で他の大夫たちに対しては両氏への反感を煽っていた。

 (注19)でんきつ(?~BC485年)。「田氏当主となった田乞は、自領民を施す際には大型の枡を用い、課税する時は小型の枡で取り立てて領民の負担を軽減することで、自領民ばかりか斉国民全体の信頼も集めていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B9%9E

 紀元前500年、晏嬰がこの世を去った。このため、高氏と国氏の両家が朝政を掌握した。紀元前489年、景公は病が重くなり、国夏と高張は年少の公子荼を太子とする遺命を命じた。田乞は政変を起こし、高氏と国氏の両家を滅ぼした。高張は殺され、国夏は莒に、晏圉は魯に亡命した。田乞は晏孺子荼を殺して、鮑牧ら諸大夫の擁立した年長の公子陽生を国君とした(悼公)。

⇒田乞の同時代人で田一族だったので、互いに面識があったと思われるのが孫武(BC535年頃~)だ。(太田)

 紀元前485年、悼公は鮑息らにより殺され、公子壬を国君とした(簡公)。田乞の子の田成子は闞止とともに左右の相となった。紀元前481年、田恒<(注20)>は政変を起こし、闞止と簡公を殺し簡公の弟の公子驁を国君とした(平公)。

 (注20)でんこう(BC5世紀頃)。「田乞(田釐子)の子として生まれた。紀元前485年、田乞が死去すると、田恒が後を嗣いで田氏の宗主となった。斉の悼公が殺害され、簡公が立てられると、田恒は闞止とともに左右の相となった。田恒は闞止を憎んでいたが、闞止は簡公に気に入られていたため、その権力を奪うことはできなかった。そこで田恒は田乞の時代の政治を復活させることにし、穀物を支給するときには大きな斗を用い、収納するときには小さな斗を用いることとした。斉の人々は「老女が黍を採れるのは、田子のお陰だ」と歌った。斉の大夫たちが参朝したとき、御者の鞅が田氏と闞氏は並びたたないので、どちらかを選ぶよう簡公を諫めたが、簡公は聞き入れなかった。ときに田氏の遠い親戚である田豹は闞止に仕えて気に入られていた。そこで闞止は田氏の宗家を滅ぼして、田豹を代わりに田氏の宗家に立てようと計画した。田豹はこのことを田氏に伝え、機先を制するよう勧めた。紀元前481年5月、田恒は兄弟たちとともに起兵して闞止を攻め殺し、簡公を舒で捕らえた。6月、田恒は舒で簡公を殺害させた。田恒は簡公の弟の姜驁(平公)を立てて斉公として即位させた。田恒は斉の相となった。
 田恒は簡公を殺害したことから、諸侯が自分を処断する名目で侵攻してくることを恐れた。紀元前480年冬、田恒は斉と魯を講和させ、成の地を魯に返還した。そのほか衛にもかつて侵攻した地を返還した。田恒は晋の韓氏・魏氏・趙氏と結び、南方の呉や越との通交を開いて斉の対外関係を安定させた。国内では広く論功行賞をおこなって人心の収攬につとめた。田恒は刑罰を下す権限を独占して、斉の公族一門や鮑氏・晏氏や闞止の一族を粛清し、独裁権を確立した。田恒は安平より東は瑯琊にいたるまでを自らの封邑とし、平公の食邑より広大な領地を経営した。田恒は斉国中の女子で身長7尺以上ある者を自らの後宮に入れ、その宮女は百を数えた。・・・
 田恒が死去すると、70人あまりの男子があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%81%92

 この後、田恒は斉の大権を握り、鮑氏や晏氏などの諸族を誅した。田氏は平公・宣公・康公の三代に渡って実権を握った。
 前391年、姜斉の最後の君主の康公は田和<(注21)>により海島の孤島に追放された。

 (注21)太公 (田斉)(?~BC385年。在位:BC386~BC385年)。「前391年、康公を追放し、自ら斉公を名乗った。
 紀元前386年、田和は周の安王によって諸侯に列せられ、正式に斉の君主となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%85%AC_(%E7%94%B0%E6%96%89)

 食邑に一城与えられ、祖先を祀ることを許された。田和は自立し君主となった(太公)。前386年、田和は周の安王により諸侯に列された。これにより姜姓の斉から田氏の斉に取って代わられた。田和は正式に侯となり、国号を姜斉時代と同じく斉とした。これを「田斉」という。この出来事は「田氏代斉」(姜斉の滅亡)という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E6%96%89

⇒太公の孫の威王に仕えたのが孫武の子孫の孫臏だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E8%87%8F
 一族から孫武と孫臏を輩出させた田一族に政略に傑出する血が流れていたからこそ、下剋上後、(秦を除いて)最後まで斉という国を維持することができたのだろう。
 (威王の孫の湣王の宰相等を務め、鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の故事でも有名な孟嘗君(田文)も斉の公族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%98%97%E5%90%9B
だ。)

 逆から言えば、政略に自信過剰であったために、一国だけ残ってもなお、秦に武力抵抗を続けたのだろう。(太田)

(続く)