太田述正コラム#14026(2024.2.11)
<映画評論115:孫子兵法(その13)>(2024.5.8公開)
「史実」では、孫武が夫差にも仕えた的な記録はなさそうですが、「孫子 兵法」は前半を、基本的に、孫武の斉人の「親友」国無咎とこの2人と「三角関係」にある高紫蘇、という、たった二人の架空の人物群を配することでうまくドラマ化しているところ、後半の夫差の呉王時代にどう孫武をからませるか、が見どころです。
で、呉の夫差と来れば、その最大のライバルは越の勾践(注22)です。
(注22)こうせん(?~BC464。在位:BC496~BC464年)。「允常の訃報を契機として、呉王の闔閭が、喪中の越へ大軍を率いて攻め込んだ。しかし、父の代より仕えていた范蠡<(コラム#14006)>の奇策により、呉軍を欈李(現在の浙江省嘉興市海寧市)で大敗に追い込んだ。この戦で・・・矢で片足を負傷した闔閭は、これが原因で破傷風に罹り陣没。勾践の即位とともに襲来した呉においても、父の陣没によって太子の夫差が即位。これ以降、勾践と呉王の夫差との対立がさらに深まった。
越への復讐心を滾らせる夫差は、伍子胥の補佐を得て呉を建て直し、これを妨害せんと出撃してきた勾践を撃破。そのまま越に攻め込んで今度は越を滅亡寸前までに追い詰めた。
勾践は范蠡の進言に従って夫差に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れた。勾践は呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、范蠡の工作により程なくして越に戻ることになった。勾践はこのときの悔しさを忘れず(これを「会稽の恥」と言う)、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。前述の夫差と合わせて臥薪嘗胆という故事の元となった逸話である。
越は着々と国力を蓄え、夫差が中原の会盟に出かけたときを狙って呉に攻め込んだ。呉の太子友は斬られ、夫差は慌てて呉へ引き返してきたが、これより4年後に呉は越に滅ぼされることになる。勾践は敗れた夫差を再起できぬように甬東(舟山群島)へ流罪に処そうとしたが夫差は恥じて自決した。
呉を滅ぼした勾践は、越の都を瑯琊(現在の江蘇省連雲港市海州区)に遷し、更に諸侯を会盟して中原の覇者となった。
ただ、覇者となった勾践は讒言を信じるようになり腹心の范蠡が去り文種を自殺させたりと越を衰退させる結果となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%BE%E8%B7%B5
「会稽の恥<は、>・・・春秋時代、越王勾践が呉王夫差と戦い、会稽山で包囲され、屈辱的な講和を結んだ故事から) 敗戦の恥辱。他人から受けるひどい恥辱。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9A%E7%A8%BD%E3%81%AE%E6%81%A5-457129
「会稽山は、<現在の>浙江省紹興市南部に位置する山。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E7%A8%BD%E5%B1%B1
⇒支那では、名君であっても、呉の闔閭や越の勾践のように、晩節を汚す者が引きも切らない印象ですが、これは、(調べがつきませんでしたが、)日本のように隠居の慣習がなさそう(注23)であり、耄碌しても死ぬまで君主の座に座り続ける結果でしょうね。(太田)
(注23)「<支那>史で<は>、皇帝は何百人もいたのに、日本的な意味での「上皇」は数人ていどしかいませんでした。」
https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/20190128.html
(続く)