太田述正コラム#14032(2024.2.14)
<映画評論115:孫子兵法(その16)>(2024.5.11公開)
中共当局の宗教に対する姿勢がそうだからである可能性も皆無ではありませんが、『史記』の春秋戦国時代の描写の中でも私には記憶が殆どありません。
考えてみれば、春秋戦国時代には仏教はまだ支那に伝播していませんでしたし、儒教・・が宗教と言えるかどうかはさておき・・も道教も成立していませんでしたから、当時は、実際、世俗的な時代でれっきとした宗教とは余りご縁がなかったのかもしれません。
論より「証拠」、例えば、周のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
には、宗教に係る記述は皆無です。
もう一度書きますが、春秋戦国時代の支那は、恐ろしいばかりに近代的であったと言えるのではないでしょうか。
そんな支那が、その後、突然、停滞してしまったわけです。
いや、支那においては、(旧江南文化圏を含めた)統一国家成立以降も、紙と印刷術・火薬・羅針盤の三大発明があったではないか、という反論が予想されます。
しかし、まず、「紙<について>は、紀元前2世紀頃、<支那>で発明されたと考えられています。当初は試行錯誤しながらいろいろな方法で紙が作られていたようですが、西暦105年頃に蔡倫(コラム#13838)という後漢時代の役人(宦官)が行った製紙法の改良により、使いやすい実用的な紙がたくさん作られるようになったと言われています。
ちなみに、蔡倫が紙作りに使った材料は、 麻のボロきれや、樹皮などでした。」
https://www.jpa.gr.jp/p-world/p_history/p_history_02.html
というのですから、 蔡倫が製紙法を発明したわけではなく、改良しただけであるわけです。
ですから、紙が生誕したのは、後漢時代ではなく、前漢時代、つまり、事実上、春秋戦国時代の延長線上、の時期である、と、言ってよいのではないでしょうか。
また、支那では、「7世紀から8世紀頃には木版印刷が行われていたといわれ<てはい>る」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E5%88%B7
けれど、支那人は、「『はんこ』は,木や石にほって色をつけたくない部分をけずるおなじみの『版画』の技術をつかって<きてい>ま<したし、>・・・石碑から『拓本(たくほん)』をとること<も>思いつ<いてい>ました。
<ちなみに、>拓本とは,「もとになるものの上に紙をのせて刷るやりかた」です。」
https://www.shumpou.co.jp/technology/lets_learn/phistory/
ということから、私は、支那において、紙の生誕と同時に、事実上印刷も始まった、と考えています。
次に火薬については、「唐代(618年 – 907年)に書かれた「真元妙道要路」には硝石・硫黄・炭を混ぜると燃焼や爆発を起こしやすいことが記述されており、既にこの頃には黒色火薬が発明されていた可能性がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%96%AC
とされてはいますが、支那では、「少くとも紀元2~3世紀には黒色火薬が・・・発明されていたと考えられる<ところ、>・・・B.C.160~122 劉安の淮南子に硫黄、炭、消と黒色火薬の三成分が現れ、<それらが>硫化銅を含む金鉱より金銀の分離<に用いられていた>」
https://www.jes.or.jp/mag/stem/Vol.28/documents/Vol.28,No.4,p.322-330.pdf
ことから、遅くとも前漢、早ければ春秋戦国時代に火薬が発明されていた可能性が大です。
(続く)