太田述正コラム#14042(2024.2.19)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その3)>(2024.5.16公開)
「<江南は、>平地が広がり、住民はまばら、自然の恵みが豊かなので自給も可能だった。・・・
<しかし、>困窮・飢饉の不安<が>ないだけに、蓄積のインセンテイヴは働かないし、交換・取引の動機も機会も少なく、貧寒に悩む人もいなければ、富豪を誇る家もなかった。
このように自足して受け身、進取に乏しいのが、黄河文明・中原と比較した長江文明・江南の特徴だといえるのかもしれない。
それでも中原と接触、交渉した地域は、その異文明の影響もあってか、次第に様相がかわってきたようである。・・・
⇒この箇所、典拠が示されていません。(太田)
<その結果の>富強化を象徴するのが、・・・紀元前6世紀後半から5世紀にかけて<の>・・・呉・越の勃興である。・・・
呉は・・・申公巫臣<(注3)>・・の仲介で、中原の大国・晋と国交を結び、中原流の技術や用兵を伝えられた。
(注3)?~?年。「楚の武王時期の屈瑕を祖とする屈氏出身で、屈狐庸(中国語版)の父で、屈蕩(中国語版)(叔沱、屈原の祖)の族弟。若くして荘王に目をかけられ、国防の要である申の長官や外交官を歴任した後、楚から亡命して晋に仕えた。その後は晋・呉において宰相を務めた。また絶世の美女である夏姫を妻としたことでも知られる。・・・
<仕えていた>晋公(景公)に呉と国交を結ぶ事を進め、自ら呉に出向いた。これにより晋は中華(この場合は周王朝と言う意味)の諸侯で初めて呉との国交を結んだ。巫臣は用兵や戦車を御する技術を伝え、子の屈狐庸を外交官として呉に仕えさせ、晋に帰国した。この事が後に呉国が強国になった一因となった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E8%87%A3
<当時は>青銅器時代<であり>。豊富良質な銅資源を有した呉で名高いのは、剣の鋳造である。・・・
これも中原から技術が伝播して洗練を重ねたことによるものだろう。
出土遺物にも「越王勾践剣」<(注4)>など、青銅製の武器が数多い。・・・
(注4)「剣本体は、柔軟で折れにくい銅<(80.3%)>で作られており、刃の鋭さを維持し硬くするため錫<(18.8%)>が多く含まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E7%8E%8B%E5%8B%BE%E8%B7%B5%E5%89%A3
<さて、>楚は<この>呉の攻撃でいったんは<首都の>郢を失ったものの、ほどなく再起する。
前5世紀に淮河流域や山東方面に進出していた越と勢力を争い、勾践のあと衰えた越を併合して、長江流域の大国の地位を回復した。
ところが前4世紀には、・・・「商鞅の変法」でにわかに強大化した秦が、西方・上流から楚に圧迫を加えはじめた。
秦に外交で翻弄され戦いに敗れて、囚われの身となったあげく亡くなる楚の懐王<(注5)(コラム#13974)>の悲劇が、なかんづく著名なエピソードである。
(注5)?~BC296年。在位:BC328~BC299年。「秦の張儀の謀略に引きずり回され、国力を消耗し、最後は秦との戦いに敗れ秦に幽閉されたまま死去した。戦国時代の暗君の代名詞的存在と目され、楚の悲劇の象徴とされた。
孫(一説に玄孫)が、項梁に反秦軍の象徴として担ぎ出され即位するも、実権を持たず、疎んじられたすえに殺された、同様に懐王と呼ばれた後の義帝である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%8E%8B
秦は前278年に郢を攻略し、雲夢沢(うんぼうたく)など洞庭湖周辺の山林藪沢を奪って、圧倒的な優位に立った。
本拠の長江中流域を失った楚は、以後いっそう北方の淮河流域を本拠とする国に変質する。
中原に近くなっただけに、その境域内の比重でいえば、東方の長江下流域・・・<すなわち>呉・越の故地・・・との関係が緊密化した。
それを象徴するのは、楚の春申君<(黄歇)(コラム#13960)>(しゅんしんくん)の事跡であろうか。
かれは戦国時代の末期に侠客の元締として活躍し、さまざまな逸話も残した、いわゆる戦国四君の一人として名高い。
宰相に就任した春申君は、呉越地方の統治を委ねられ<(注6)>、ここが楚の新たな勢力基盤となった。・・・
(注6)「黄歇は考烈王より・・・、令尹に任じられ、淮北(淮河の北)の12県を与えられ、春申君と号した。春申君はその元に食客を3千人集めて、上客は全て珠で飾った履を履いていたという。客の中には荀子もおり、春申君は荀子を蘭陵県の令(長官)とした。
考烈王5年(紀元前258年)、趙の首都邯鄲が秦によって包囲され、平原君が救援を求める使者としてやって来た。春申君はこれに応えて兵を出し、秦は邯鄲の包囲を解いて撤退した。
考烈王15年(紀元前248年)、斉に接する重要な土地である淮北を直轄の郡にすることを考烈王に言上し、淮北の代わりに江東を貰い、かつての呉の城を自らの居城とした。『戦国策』によれば、これは趙の上卿(上級大臣)虞卿の献策を一部受け入れて、王族からの妬みや政治的影響を逸らすために、首都から遠い地に封地を遷したものと伝わる。その後、軍勢を動員して、魯を滅ぼした。
考烈王22年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の合従軍を率いて、秦を攻めたが、函谷関で敗退した(<第二次>函谷関の戦い)。この失敗により、考烈王は春申君を責めて疎んじるようになる。
同年、春申君の提言により、楚は寿春へと遷都した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%94%B3%E5%90%9B
⇒このくだりについても、何らかの典拠を示してもらいたかったところです。(太田)
<その>春申君が・・・政争の果てに・・・謀殺される<(注7)>と、国勢はいよいよ萎靡振るわなくなり、前224年、秦に滅ぼされてしまう。」(34~40)
(注7)「春申君の食客のひとりに趙の人の李園がいた。李園の妹の李環は美人でいずれ考烈王に差し出して出世しようと企んでいた。春申君はその妹を寵愛していた。その後、李園の妹は春申君の子を身籠った。これに対して、李園は考烈王に嗣子がないことに付け込んで、春申君に李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができると唆した。春申君はこの策を真に受けてしまい、考烈王に進言し李園の妹を献上した。李園の妹は王后となり、李園は要職についた。
その後、李園は事の露見を恐れて、春申君の命を狙うようになった。春申君の食客の朱英は危機感を覚え、李園の殺害を命じるよう春申君に言ったが、春申君は李園を軽く見ていたのでこれを相手にしなかった。身の危険を感じた朱英は間もなくそのまま逃亡した。
考烈王25年(紀元前238年)、考烈王が病死する。葬儀に向かう春申君は棘門(城門の名前)で待ち伏せていた李園の刺客に従者もろとも殺害され、城外にその首を捨てられた。そして、一族郎党皆殺しとなった。
李園の妹が産んだ子が即位し、幽王となった。」(上掲)
⇒江南の「富強化を象徴」する呉越を併合した楚、すなわち江南、が、どうして(私見によれば一時のこととはいえ)秦に敗れてしまったのか、(全く想像がつかないわけではないけれど、)著者は何も説明してくれていません。(太田)
(続く)