太田述正コラム#14044(2024.2.20)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その4)>(2024.5.17公開)
「・・・相争った呉・越にせよ、その後を継いだ楚にせよ、江南は中原列国から「夷狄」扱いされるくせに、その争覇に深入りし、列国の上に立とうとしたあげく、最後には苦杯を嘗めるのが常だった。
そうしたパターンは、呉・越・楚が滅亡し、江南が秦に併合され、中原と一体化する段階になっても、どうやら終わらない。
以後も形をかえて継起し、歴史を動かす契機をなしていった。・・・
<秦による天下統一がなった後、>陳勝・呉広が大沢郷(だいたくきょう)で蜂起したのを口火に、彭城の景駒<(注8)>、沛県の劉邦、そして会稽の項梁・項羽があいついで武装蜂起する。
(注8)けいく(?~BC208年)。「楚の平王の庶長子である子西(公子申、景申)の後裔にあたる(景氏は屈氏・昭氏と共に楚の公族系でも最高の名門の1つであった。これは三閭と呼ばれている)。・・・
二世2年(紀元前208年)・・・1月・・・、秦に反乱を起こしており、陳勝が敗走したと聞いた秦嘉と甯君らによって、留で楚の仮王として擁立される。・・・
韓の張良は景駒に従おうとして留に赴いたが、道中で劉邦と出会い、劉邦に従うことに決めた<。>・・
同年4月、秦嘉が彭城において、項梁の軍と戦い大敗する。秦嘉は胡陵で再び項梁と戦ったが戦死した。景駒は逃亡したが、梁の地に逃れて没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E9%A7%92
このうち項羽が最も南方、長江以南で挙兵したことに注意しておきたい。
これらに共通するのは、反秦の旗として「楚」の復興を掲げた点にある。
陳勝は国号を「張楚」としたばかりか、楚の官制を採用した形跡があるし、景駒は楚の名門景氏の御曹司だった。
両勢力はまもなく瓦解したけれども、項羽は楚王の末裔を探し出し、「懐王」<(注9)>に擁立した。
(注9)?~BC206年。「楚の懐王の孫(一説では玄孫とも)。・・・
紀元前207年、劉邦が咸陽に一番乗りして、秦王子嬰を降伏させ、その後に項羽が咸陽に入った。・・・義帝として即位<した>・・・懐王は約を実行するよう諸将に命じるも、項羽はこれを無視し、劉邦を左遷するなど自ら独断で諸侯を封建し、自身は「西楚の覇王」を名乗った。・・・
<その>義帝<が項羽の手の者>により<殺害されたことによって>、反秦勢力の実質上の盟主もしくは秦滅亡後の<支那>の実質上の元首としての項羽の政治上の正統性が失われた。これによって楚漢戦争で劉邦は大逆を犯した項羽を天に代わって討ち果たすという大義を得ることとなり、項羽の滅亡ひいては漢王朝の成立へとつながっていく。・・・
子<は>いなかった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%B8%9D
秦に煮え湯を飲まされた悲劇の先代懐王の復活であり復仇である。
反秦運動として恰好のシンボルにほかならない。・・・
前206年、項羽・劉邦の攻撃で、秦そのものが滅亡すると、郡県制で「統一」を保った「天下」は、18の列国が並び立つ体制に再編される。
この体制の頂点には「懐王」改め「義帝」がおり、実質的なリーダーは秦を滅ぼし、「西楚覇王」を称した項羽であった。
その項羽にしたがう形で列国が存在する。
真っ先に「漢中」を平定し、漢王に封ぜられた劉邦も、その一人であった。
つまり「義帝」という名目的な天子、項羽という実際の「覇者」、そして従属する諸侯列国からなるかつての中原連合・旧体制の復活だとみればよい。・・・」(40~44)
⇒楚の王家に繋がる2人が秦滅亡後に傀儡として擁立され、用済み後、捨てさられた一方で、秦の王家の人々に関し、日本の「秦氏は、・・・『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君を・・・祖とする<ところ、>平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるが、その真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかではなく、これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F
けれど、私は、始皇帝がらみの徐福伝説もこれあり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F
秦滅亡後の秦の王家の人々が、東方に強い関心を抱いた可能性は大いにあったと考えられることから、このような秦氏の伝説を一笑に付すべきではないと思います。(太田)
(続く)