太田述正コラム#14058(2024.2.27)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その11)>(2024.5.24公開)
「<また、>現在のベトナム北部は、漢末より交趾郡(こうしぐん)の長官が支配しており、半ば自立していたところ<、>・・・孫権は220年、・・・在地勢力を武力で制圧<し>た。
さらに南方の扶南(ふなん)や林邑(りんゆう)にも使節を送って、両国の臣従、朝貢をとりつけている。
また北東に向けては、やはり自立していた遼東半島の公孫氏や、朝鮮半島の高句麗と接触をこころみ、曹操の背後を脅かそうとした。・・・
<更に、>「三国」随一の仏教国にもなっていった。
たとえば北方からは、中央アジアの大月氏に出自をもつ仏僧の支謙が、中原の騒乱を避けて呉に移住、孫権に重用され仏典翻訳に活躍している。
南では交趾の僧侶・康僧会<(注18)>(こうそうえ)が訪れると、孫権は建業に建初寺を建立して迎えた。
(注18)?~280年。「僧会の先祖は康居の人で、インドに住んでいた。僧会の父親は商人であり、交阯(ベトナム)に渡った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%83%A7%E4%BC%9A
こうした仏教振興も、江南政権の先駆的事業である。・・・
⇒「孫権は彼を引見してこう尋ねて「仏陀は何の効き目があるか」と。康僧会は「如来は滅寂してから、最早千年余りがたったが、しかし、今遺骨の仏舎利はまだ霊験を現すことができます。そのため、阿育王はかつて8万4千基の仏塔を建てて、それによって仏教の前代からの気風が教化されました」と答えました。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%A8%A9
というやりとりを踏まえれば、仏教は、孫権はもちろん、「僧侶」であった康僧会にとっても、現世利益追求の手段に過ぎなかったと言えそうです。
それに比べ、在家訳経者に過ぎなかった支謙の方が、少なくとも非殺生戒を遵守していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E8%AC%99
点で、相対的にまともな仏教理解をしていた、と言うべきでしょうね。(太田)
「三国」を統一したのは、蜀漢を滅ぼした曹魏の後を継いだ晋王朝である。
武帝・司馬炎が西暦280年に孫呉を滅ぼして併呑し、60年ぶりに中国全土を支配する政権を実現した。
ところがそのおよそ10年後、各地に分封した宗室諸王の内紛、いわゆる「八王の乱」が起こり、それがさらに匈奴の反乱を招いて、王朝政権そのものが滅んでしまった。
時に316年、永嘉の乱という。」(54~55)
⇒「西晋は曹魏をそのまま乗っ取った形で成立したため、高い軍事力を持っていた。しかしこれは三国時代という戦時<の賜物だったの>であり、統一後は軍備は必要ないとして武帝は若干を例外として州郡に所属していた兵士を帰農させて平時体制に移行し、有事の場合には洛陽など要衝に展開する中央軍を派遣するという形をとった。これは後漢末期に地方における分権的な軍事状況を放置した結果、群雄割拠が成立した事を恐れての処置であったが、このために有事すなわち異民族の反乱が起こると地方は無力で対応できず、逆に永嘉の乱で西晋が滅亡する契機となった。(A-1)
また八王の乱で東海王司馬越が自軍に鮮卑、成都王司馬穎が匈奴など、諸王が少数異民族を軍事力として利用したため、異民族が中国内地に流入する事になった。(A-2)・・・
<かつまた、>武帝は統一事業を完成させると急に堕落した。それまでの英主が愚君に変貌して女と酒に溺れて朝政を顧みなくなった。また武帝の皇太子司馬衷が暗愚なため、衆望は武帝の12歳年下の同母弟で優秀だった斉王司馬攸の後継を期待していた。ところが武帝は司馬攸に対して斉への赴任命令を出し、周囲の諫言を封殺した上に司馬攸を支持する派閥を徹底的に粛清した。司馬攸はこの命令に憂憤して発病し、283年に死去した。これにより晋宗室を支える人材はいなくなり、武帝の晩年には皇后楊芷の父の楊駿が朝政を掌握して、西晋はかつての後漢と同じように外戚が国を専権する様相が再現された。(B)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B
というわけですが、私見では、A-1は、最初の黄河文化と江南文化の統一政権たる秦、及び、その後の諸王朝共通の軍事軽視という問題であり、A-2はこの問題に安易に対処しようとしたことの結果としての問題であり、Bは、王朝承継者達の多くに見られる問題ながら、王朝創業者にしてこの問題を発現させてしまった特異な例である、と言えるのではないでしょうか。(太田)
(続く)