太田述正コラム#14060(2024.2.28)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その12)>(2024.5.25公開)

「晋室の一人司馬睿(しばえい)はこの時、江南方面の守備に任じていたので、中原の騒乱からまぬかれた。
 永嘉の乱のなか愍帝(びんてい)が死去したとの報に接すると、建業の名を改めた健康で即位する。
 東晋の元帝<(注19)>である。

 (注19)276~323年。在位:317~323年。「永嘉5年(311年)、懐帝が匈奴系である漢(後の前趙)の捕虜となり平陽に連れ去られると、・・・推されて盟主となった。・・・建興元年懐帝を継いで愍帝が即位すると、・・・江東の政務・軍事の全てを取り仕切るようになる。
 建興4年(316年)、漢の劉聡による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると、当時丞相・大都督・中外諸軍事として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%B8%9D_(%E6%9D%B1%E6%99%8B)

 以後の中原には、さらに北の遊牧民も波状的に南下移住し、割拠勢力となって興亡をくりかえした。
 いわゆる「五胡十六国」である。
 そして居住していた漢人は、上下を問わず、混乱・戦火を避け、雪崩を打って南をめざし、江南は90万人ともいわれるかつてない規模の移民を迎えることになった。
 いかに人口希薄だったといえ、そこには・・・先住の有力豪族層が根を下ろしていたから、北来の移民との間で大きな緊張が生じるのは避けられない。・・・
 こうした移民豪族のうち、・・・名族集団が・・・いわゆる門閥「貴族」であり、・・・いわゆる貴族制は江南の地において、最も発達をみたのである。
5世紀に入り、東晋政権の実権を握ったのが・・・北方の勢力に対抗すべ<く>・・・置かれた長江下流域方面軍の拠点<の>「北府」・・・の司令官・劉裕<(注20)>だった。・・・

 (注20)363~422年。在位:420~422年。「宋書では漢の高祖劉邦の異母弟である楚元王劉交の二十一代の子孫と記されている。東晋の頃は家は代々中級の官吏として郡の太守や県令を歴任していた。曾祖父の武原令・劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移った。・・・
 ただし、敵国で書かれた『魏書』島夷劉裕伝では、本名は「項裕」であり、先祖が誰かも分からず、成りすましで劉姓を勝手に名乗ったワラジ売りであるとしている。その証拠に劉氏系図に劉裕の名はないとまで書いている。・・・
 <この>劉裕と仏教との<間には>濃密な関係が<あった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E8%A3%95
 「北斉で編纂された『魏書』は、北斉が北方の王朝であることから江南の東晋の正統性を認めて<いない。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%B8%9D_(%E6%9D%B1%E6%99%8B) 前掲

 <彼>は・・・空前の武功・・・を背景に、東晋の恭帝<(注21)>から禅譲を受け、宋(劉宋)を建国した。

 (注21)司馬徳文(386~421年。在位:419~420年)。「東晋の第11代(最後)の皇帝。孝武帝の次男。・・・
 知的障害とされる同母兄の安帝と異なり、英明な資質があったと評される。日常生活が不可能だった安帝を誠実に補佐する一方、篤実な仏教徒でもあった。・・・
 義熙12年(416年)、劉裕の北伐に従軍して洛陽の山陵を拝謁し、翌年に北伐軍の回軍に伴い帰還した。
 この頃、簒奪を企てた劉裕が安帝を殺害しようとしているのを察知し、常に安帝の傍で守った。しかし、義熙14年12月(419年1月)に司馬徳文が不在の際、安帝は殺害された。その後、劉裕により皇帝として擁立されたが、これはもはや禅譲の布石としての傀儡に過ぎなかった。
 元熙2年(420年)、遂に劉裕に禅譲することを余儀無くされた。こうして東晋は滅亡し、新たに劉裕(高祖武帝)による南朝宋が成立したのである。禅譲に際しては「晋(東晋)はとうに滅んでいたはずだった。何を恨むことがあろう」と言ったと『晋書』に記されている。
 恭帝は南朝宋により零陵王に封じられたが、永初2年(421年)9月に暗殺された。
 ・・・『魏書』によれば、秣陵宮になだれ込んだ劉裕の兵に服毒自殺を命じられたが、仏教徒であった恭帝は「仏教では、自殺者は人に転生できない」と拒んだので撲殺されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AD%E5%B8%9D_(%E6%9D%B1%E6%99%8B)

 時に西暦420年。
 この少し後には、北魏が華北の統一を果たしたことから、これ以降は南北朝時代と称せられる。
 劉裕は下級豪族の生まれで、武人として功績を積み、皇帝にまでのぼりつめた。
 以降の南北朝各王朝では、非門閥の武人が軍功を背景に新王朝を樹立し、また下層の側近が実権を握る一方で、門閥の名族がいよいよ権威を高め、既得権の維持をはかるというパターンが顕著になる。」(55~57)

⇒安帝と恭帝の父親の「孝武帝<は、そ>の<年少期の>治世前期に<補佐者達に恵まれたおかげで>東晋は全盛期を迎えることになった<ものの、>・・・次第に酒と女色に溺れて国政を省みなくなり、遂には酒の飲みすぎでアルコール中毒に陥り、宮殿の奥に入ったまま酒を飲み続けて醒める時が無く、外部の者と接触すらしなくな<り、その果てに、妃の一人に暗殺された>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%AD%A6%E5%B8%9D_(%E6%9D%B1%E6%99%8B)
という、暗愚な人物で、東晋が急速に傾いたところへ、知的障害の安帝、敬虔な仏教徒の恭帝、と来れば、滅亡の方程式が完成、というわけです。(太田)

(続く)