太田述正コラム#14066(2024.3.2)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その15)>(2024.5.28公開)
「武帝に背いた侯景は、陳覇先<(注26)らが>率いる軍の攻撃を受けて敗亡した。
<その>陳覇先が557年に即位し、陳を建国し、なお南朝は存続する。
(注26)503~559年。在位:557~559年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%9C%B8%E5%85%88
しかし中原の北朝が軍事的に優位を占め、長江中流域には梁の後継政権も割拠していたから、陳の威令は建康を中心とする長江下流域しか及んでいない。
命脈も30余年にすぎなかった。
陳を倒したのは、北朝を継承した隋の文帝である。
589年に建康を陥れ、およそ270年ぶりに中原・江南の統合を成し遂げた。・・・
しかし建康は零落しても、江南全体が衰亡したわけではないし、そのプレゼンスが消え失せたわけでもなかった。
文帝を継いだ煬帝<(注27)>は、即位以前に陳征服軍の総司令官となって建康の接収にあたり、その後も10年あまり揚州総管に任じ、旧南朝の人士と交わってきた人物である。
(注27)揚広(569~618年。在位:604~618年)。「高句麗遠征以前から中小の反乱が起きていたが・・・隋全土に乱が拡大し、「天下の人十分を挙げ、九は盗賊となる」という内乱状態となった。
煬帝は第三次遠征から洛陽に還ったが、・・・騒乱が激しくなった華北を捨てて南の江都(揚州)へと避難した。華北は・・・群雄割拠の情勢となり、さらに太原留守であった李淵が首都大興城を陥落させて唐を建てた。
この状態に対して煬帝はもはや北帰は叶わないと諦めて現実から逃避して酒色にふけるようになった。現実から逃避した煬帝だがその一方で皇后に向かって「俺の首を取りに来るのは誰だろうな」とこぼしていた。そして大業十四年(618年)、・・・クーデターが起こり、煬帝は毒酒による死を望んだが許されず、縊死した。・・・
煬帝は・・・一面では隋代を代表する文人・詩人でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D
「2013年春、揚州市の西郊外で発掘された墳墓から、「隨(隋)故煬帝墓誌」と刻まれた墓誌が発掘され、煬帝と蕭皇后を埋葬した墓であることが確認された。墓誌は風化が進んでいたが、埋葬が唐の太宗の貞観九年(元年とみる説もある)であることが読みとれた。唐に倒された前王朝最後の皇帝である煬帝は、唐の太宗によって、江都の郊外に陵墓を築き正式に埋葬されていた。しかも傍らの墓室には皇后蕭氏も眠っていた。これを合葬という。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-006.html
妻の蕭氏も梁武帝の末裔で、煬帝は彼女から学んで、こよなく江南の風土・文化を愛好した。
604年に即位してからは、かつての「北府」広陵あらため揚州を、開削した大運河<(注28)>が長江と交叉する拠点にする。
(注28)「煬帝は父以来の一大事業として、大運河を建造を継承した。605年には通済渠、608年には永済渠を開削、これによって<支那>は初めて経済的に一体化したと言うことができる。運河開削は同時に軍事的な目的もあり、<特>に永済渠は高句麗遠征に備えた軍需物資輸送を想定していた。しかし、大運河建設は民衆に重い負担となったことも事実であった。」(前掲)
そしてその地に行幸をくりかえし、同地に建設した江都宮に入りびたった・・・。・・・かれはむしろ南朝の後継者と呼んだほうがふさわしいかもしれない。
その末路もしたがって「南風競わず」、南朝の悲劇を襲ったものだった。
失政のあげく大乱を招き、自身は揚州江都宮に引きこもって、最後は618年、側近に裏切られて非業の死を遂げる。・・・」(67~68)
⇒著者の煬帝実質江南人説は、なかなか面白いですね。
秦の始皇帝についても同じことが言えそうですが・・。(太田)
(続く)