太田述正コラム#14068(2024.3.3)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その16)>(2024.5.29公開)

 「かつては冠絶していた中原の農業生産は、気候の寒冷化と開発の限界によって、相対的絶対的に低下した。
 なればこそ一体の「中国」を経営するには、南北をつなぐ大運河が必要だったのである。
 やはり隋の煬帝の事業は、遊興暴政ばかりではなかった。
 隋を承けた唐は、それでもなお北朝の伝統を受け、武力本意を持する政権だった。
 また江南に深入りした先代の煬帝を反面教師にしたせいか、以後・7世紀の唐前期には、江南へのまなざしはごく稀薄になる。
 およそ記録が乏しい。
 政治家も少なくとも初期には、江南出身の有力者はごく少数であった。・・・
旧南朝地域が制度上、唐の律令にもとづく一元的な行政体系下に組み込まれていたことはおそらくまちがいない。
 しかし現実として一律な統治がどこまで貫徹していたかは、また別の問題である。

⇒既述したように、唐においては、旧北朝地域も含め、「一律な統治」など貫徹してやしなかった、というのが私の見方であるわけです。(太田)

 北朝由来の律令制度は、一般農民に対する一律の田土支給と税役賦課、いわゆる租調役(そちょうえき)を規定していた。
 けれども300年の長きにわたり、名族の大土地所有を前提にしてきた江南社会にそのまま適用できたはずはない。
 たとえば、江南に課せられた「租」は、麻布で代納し、「戸等」資産のランクに応じて納入額に差等を設ける規定であった。
 「貧富に関係なく一律に粟(ぞく)二石」と定めていた「租」の本来規定からは、大きく逸脱している。
 また兵役のうち、江南の庶民が負担する可能性があったのは、一生にいちど就役するかどうかの地方辺境防備にあたる「防人(ぼうじん)」のみで、中央の軍役徴発義務とは無縁であった。・・・
時代の進行はやまない。
 北朝からの政治軍事を支えてきた律令制、とりわけその根幹をなす租調役制が崩潰しはじめていた。
 戸籍に編製され、生産物と労働力を負担すべき農民が逃亡し、流民化したからである。
 このままでは、対内的な治安維持と対外的な辺境防衛をまかなうことができない。
 唐はそこで、専従の軍兵を雇用する募兵制を導入し、その指揮にあたる節度使というポストを新設する。・・・
 また、専売塩に・・・原価の30倍を越える高率の・・・間接税・・・額を設定し、莫大な税収をあげることに成功する。
 また機能しなくなった租調役制にかわる税制として、780年に導入されたのが両税法である。
 戸籍登録の農民に均等に課せられた租・調と異なり、両税は貧富に応じて負担に差をつけ、銅銭ないし布帛(ふはく)と穀類との二本立てで徴収された。
 これはむしろ南朝以来、江南で継続していた税制原理によっている。
 以上の両税法・塩専売・漕運をくみあわせ、徴収から輸送を円滑にすることで、江南の産物を安定的に北送して中央政府の財源を支えた。
 唐はこうした財政運営で政治軍事をまかなう体制に転換したのである。
 日中の碩学はこうした体制の変容を、北朝出自の唐が「南朝化」した、あるいは「武力国家」の唐が「財政国家」になった、などと表現してきた。
 いずれも同じ事態をいいあらわしたものであり、9世紀以降の唐の軍事政治を支えた江南の財政経済上の役割の大きさを物語る。
 かつて南北は中華の正統を争って政治的に分立していた。
 ところが唐の変貌とともに、そのありようは、すっかりかわっている。南北は経済文化と政治軍事をそれぞれ担う分業の関係に転換して、「中国」の新しい形を模索することになった。・・・」(73~74、76~78)

⇒いや、そういうことではなく、漢において、漢人文明が、黄河文化と江南文化の統合によって成立して以来、その文明は、軍事(武力)の手抜きに立脚したものになり、爾後は、西欧勢力の東漸が始まるまでの間、この文明への外からの脅威は、軍事による対抗ではなく、侵攻、浸透の受忍とこの脅威の漢人文明化による無力化によって対処されるようになった、ということなのです。
 つまり、この場合も、外からの脅威は、まず北朝地域で第一次的な漢人文明化により無力化され始め、次に南朝地域を併合すると第二次的な漢人文明化により無力化が完成する、と、とらえればいいのです。(太田)

(続く)