太田述正コラム#14072(2024.3.5)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その18)>(2024.5.31公開)

 「・・・密売の横行は、・・・塩の専売制の鬼っ子といえる。
 それが結果的に「中興」した唐の命取りになる<。>・・・
 黄巣<(コラム#13858)>(こうそう)<が率いる>・・・いわゆる黄巣の乱が874年に山東で起こった。・・・
 中原に居座ったのは、反乱軍の武将朱全忠<(コラム#13858)>であり、黄巣から唐に寝返ってその大臣に収まって、ついに唐王朝の帝位を簒奪する。
 時に907年。・・・
 この朱全忠の勢力に対峙したのが、黄巣を打倒した李克用<(コラム#13712)>の騎馬軍団である。
 李克用は突厥系の沙陀族<(コラム#13666)>の首領で、太原を中心に現在の山西省を地盤とした。
 このほか、はるか以前の安史の乱で唐に帰順した軍閥が、黄河以北の平原に半ば独立して割拠し、「河北三鎮」<(注31)>と呼ばれた<が、>その末裔が10世紀になっても、大きな勢力を有している。

(注31)「河朔 (かさく) 三鎮ともいう。・・・唐後半,五代初期に河北に存続した魏博天雄軍 (ぎはくてんゆうぐん) ,恒冀成徳軍 (こうきせいとくぐん) ,幽州盧竜軍 (ゆうしゅうろりゅうぐん) の3藩鎮の総称。いずれも唐朝に帰順した安史反乱軍 (→安史の乱 ) の幹部武人の田承嗣,李宝臣,李懐仙を節度使として創置され,官吏の任免,徴税,徴兵などを中央の意向を無視して独自に行い,反唐的,自立的傾向が強かった。当時唐朝はこのような藩鎮を「反側の地」と呼んだが,その代表的藩鎮であった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B2%B3%E5%8C%97%E4%B8%89%E9%8E%AE-46462

 北方中原は主として、以上の河南・山西・河北の三勢力が北隣の強大な遊牧国家の契丹(キタイ)と対峙しつつ、血みどろの争覇をくりひろげ、政権がめまぐるしく隆替していった。
 五十年の間に都合おおよそ5つの「正統」王朝を数えたので、「五代」という。・・・
 <それ>に対し、同じ時期の南方は、概して平穏で安定している。
 ところがその南方、同じ地にあったかつての「六朝」<(注32)>・南朝とはちがって、むしろ割拠状態にあった。・・・」(82~83)

 (注32)「<支那>史上で建康(建業)、現在の南京市に都をおいた、三国時代の呉、<少し時を経て>東晋、<そして、>南朝の宋・斉・梁・陳の総称。呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222年 – 589年)を六朝時代(りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょうぶんか)と称することもある。
 六朝時代は、中国における宗教の時代であり、六朝文化はこの時代に興隆した宗教を基に花開いた。・・・
 儒教では、魏の王弼が、五行説や讖緯説を排した立場で、経書に対する注を撰した。それと同時に、老荘思想の影響を受けた解釈を『易経』に施したことで、その後の晋および南朝に受け入れられることとなった。その一方で、北朝では、後漢代の鄭玄の解釈が踏襲され、経学の南北差を生じさせるに至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9C%9D

⇒この頃になると、支那社会は、江南を中心に、私の言うところの一族郎党、群の集合体社会になっていて、「政府」が統一されていようが割拠状態にあろうが、住民達は殆ど意に解さなくなっていた、というのが私の見方です。
 一族郎党側は、「政府」に何も期待せず、そのこともあって、「政府」が課す税や役をできる限り逃れる算段をするだけ、というイメージです。(太田)

(続く)