太田述正コラム#14074(2024.3.6)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その19)>(2024.6.1公開)
「<南方諸国のうち、>傑出していたのは、やはり長江下流域の国々、つまり「江南」を占めた呉<(注33)>・南唐<(注34)>と呉越<(注35)>である。・・・」(85)
(注33)「呉(ご、902年 – 937年)は、・・・五代十国時代に江都を中心に江蘇省・安徽省・江西省を支配した国。江南の豊かな経済力を背景に強勢を誇ったが、李昪<(りべん)>により簒奪され、南唐に取って代わられた。・・・
建国者の楊行密は・・・群盗<出身。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E5%8D%81%E5%9B%BD)
(注34)「南唐(なんとう、937年 – 975年)は、五代十国時代に江南に割拠した国であり、十国の一つである。首都は江寧。国号は単に唐であるが、唐と名乗った他の政権と区別するために、特にこの国の名を南唐という。文化的・経済的に繁栄し、十国の中では最大の勢力を誇ったが、華北の後周や北宋に攻め立てられて滅亡した。
呉では、丞相を務めた徐温の死後、その養子である徐知誥が太尉・中書令となって政治の実権を握っていた。・・・徐知誥は933年には斉王となり、さらに937年10月に呉の皇帝である睿帝楊溥から禅譲を受け、皇帝として即位し、国号を斉とした。
徐知誥は養子になる前は姓が李であり、これは栄華を誇った唐の歴代の皇帝の姓の李と同じであった。このため、938年に徐知誥は自らの姓を李に戻し、自分は唐の皇族の李恪(憲宗の八男)の末裔であるとして、国号を唐とした。さらに、徐知誥は自分の名を知誥から昪に変えた。すなわち、徐知誥の姓名はこれより後、李昪となる。李昪は対外戦争を起こさないようにして、内政を充実させて国力を増強した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%94%90
「李昪<は、>・・・対立が続いていた近隣諸国とも修好を深めた。例えば、長年対立してきた呉越の宮殿で火災が起きた時には、烈祖は火事見舞を贈るほどであった。
内政の面では、土地を持たない民に土地を与えるように命じた。さらに、開墾してできた土地の税を免除することで開墾を奨励した。治水も推進し、農業生産が増えるようにした。民の負担を減らす為に、宮殿を改修することもしなかった。
また、昇元6年(942年)9月に昇元格という法律を発した。当時死刑が頻繁に行なわれ、冤罪による処刑も多かったが、この法によって、みだりに死刑を執行してはならないということになった。
しかし、晩年は不老不死を目指し、道士のつくる怪しげな薬を常用し、これがために崩御した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%98%AA
(注35)「呉越(ごえつ、907年 – 978年)は、・・・五代十国時代に現在の杭州市を中心に浙江省と江蘇省の一部を支配した国。
建国者の銭鏐は杭州の出身で、若い頃は塩の密売に関わった無頼の徒であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%B6%8A
⇒李昪って、大土木事業こそやらなかったけれど、始皇帝の矮小版といった趣の人物ですね。(太田)
(続く)