太田述正コラム#14082(2024.3.10)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その23)>(2024.6.5公開)
「中華王朝が掌握する人口は、12世紀はじめ、徽宗皇帝のころ1億人を突破したとされる。
それ以前、歴代の人口統計の推移は、前漢末期と唐中期の2回、ピークがあったものの、いずれも6000万人の規模を越えなかった。
以前の2回のピークは、数が同じ6000万人でも、もちろん内容は異なっている。
漢代の場合は、中原だけでその規模をかかえることができた。
気象が寒冷化のさなかだった唐では、すでに北方・中原の生産力が逓減した半面、南方の扇状地・微高地に対する移民・開発がすすんで、ようやくその水準に達したものである。<(注37)>
(注37)「中国科学院(Chinese Academy of Sciences)の張知彬(Zhibin Zhang)氏率いる中<共>と欧州の研究者のチームが・・・2010年7月・・・14日、農業を基盤としていた後漢(25~220)や唐(618~907)、北宋(960~1127)、南宋(1127~1279)、そして明(1368~1644)の王朝の崩壊はすべて、低気温もしくは急激な気温低下と密接に関係があると結論づけた。・・・
年間平均気温が2度下がるとステップ地帯の草原に生える草の成長期間が最大で40日も短くなり、家畜の飼育に打撃を与え、北方の遊牧民族が南の中国語を話す人々が暮らす地域に侵攻するきっかけになったという。・・・
この研究で気温が低い期間には干ばつや洪水が多いことも分かったが、紛争や王朝崩壊に最も直接的な影響があるのはコメ価格の高騰とイナゴの大量発生だった。
張氏らは、太陽活動や地軸の傾き、地球の自転といった自然の要因によって、気温の変動はおよそ160~320年の周期で起きていたと考えている。」α
https://www.afpbb.com/articles/-/2741042
「西暦907年の唐王朝の崩壊と西暦1644年の明王朝の崩壊は、干ばつ現象と寒冷化現象に結び付いていると以前は考えられていた。しかし、気候変動と社会変動の両方の記録が十分に年代決定されていないことが多いため、突発的かつ短期的な気候の変動が社会の崩壊に及ぼす影響を明らかにすることは難しい。
今回、Chaochao Gao、Francis Ludlowたちは、過去2000年間の<支那>における王朝崩壊の年代をまとめ、爆発的火山噴火の氷床コアに基づく年代と比較した。その結果、特定された68例の王朝崩壊のうち62例について、王朝崩壊の前に少なくとも1回の火山噴火があったことが判明したが、著者たちは、その根底にある原因の複雑さも強調している。著者たちは、継続中の戦争などによる、その当時の社会に存在していたストレスについても調べ、小規模の噴火による気候ショックが王朝崩壊のきっかけとなるのは既存の不安定性が高い場合のみだが、大規模な噴火は既存の不安定性が最少の場合でも王朝崩壊のきっかけとなり得ることを明らかにした。また著者たちは、王朝崩壊に至らなかった大規模噴火が多数あったことも示し、これによって多くの王朝が持つ全体的な復元力が浮き彫りになったと示唆している。」(2021年11月12日)
https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/13873 β
⇒「注37」のαとβを読み比べただけでも、この2~3000年の歴史を、気候変動を重視して説明しようとするのは、天人相関説(コラム#13804)に毛が生えた程度の信頼性しかまだない、いや、永久にそうなのでは、と、言いたくなりますね。(太田)
このたび10世紀以降は、そうした実績を受けた、新たな開発の過程であった。・・・
それまで河口・海岸附近の低湿地で農田の開発がすすまなかったのは、塩潮(えんちょう)を防ぐのが難しかったからである。
しかし土木技術の向上により、ようやく江南デルタの低湿地でも開発の努力が実を結びはじめた。・・・
三世紀の機構の寒冷化以後、南方の人口は次第に増加し、8世紀半ばには、中国全体で45%を占めた。
それが温暖化を経た11世紀後半になると、65%に上昇し、・・・人口が南北で逆転したのであって、中国史上、未曾有の局面の変化であった。・・・」(93~95)
⇒繰り返しますが、これらは、リニアな技術革新の結果であって、もはや、広義の春秋戦国時代におけるような、幾何級数的な技術革新は、支那では見られなくなってしまっていた、というのが私の見方であるわけです。
なお、私は、そもそも、人口の推計方法やその精度にも関心があるのですが、ここでは立ち入らないことにしておきます。(太田)
(続く)