太田述正コラム#14086(2024.3.12)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その25)>(2024.6.7公開)
[中国武術]
一 始めに
表記を考察するにあたっては、「琉球王国において士族の嗜みであった空手道<が>
大正時代に沖縄県から他の都道府県に伝えられ、昭和8年(1933年)に大日本武徳会において日本の武道として正式承認を受け<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%89%8B%E9%81%93
ことが参考になる。
「武器を取り上げられた琉球士族が薩摩藩家臣に対抗するために、また、武器を持つことができなかった琉球王府の士族<の間で>・・・広がっていった・・・とする説が<あったところ、>・・・薩摩藩の実施した禁武政策(1613年の琉球王府宛通達)<は、>・・・武器の所持(鉄砲を除く)やその稽古まで禁じるものではなかった」(上掲)とされるが、火器以上の武器、つまりは近代武力保有を禁じられた環境下で、琉球士族が一種のマスターベーションとして、個人的集団的軍事訓練の代替物として空手が生まれたことが推測できること、と、この空手が19世紀には唐手(トゥーディー。後にからて)と呼ばれていた(上掲)こと、すなわち、それが支那の拳法を継受したものであることを示唆していること、が、銘記されるべきだろう。
二 中国武術
(一)総論
「<支那>での名称である武術という言葉が示すのは徒手技術である拳法のみではなく、火器を除く武器術も含まれる。武器は<支那>においては器械、または兵器と呼ばれ、刀や剣に代表される短器械、槍や棍に代表される長器械などがある。<支那>の武術の門派の数は400とも600とも言われるが、徒手拳術と器械を備えている門派が多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E8%A1%93
つまり、空手/拳法は、支那以外では、例えば日本、や、日本と同じく空手/拳法類とは無縁の欧州、では生まれなかったわけだ。
それは、日本や欧州では中央政府以外での火器の保有が必ずしも禁止されていなかったからだ、というのが私の見解だ。
(二)現状
その拳法ですら、中共においては骨抜きにされている。↓
「950年に政府による武術工作会議が開かれ、新しい武術活動が開始された。
ソ連の科学的な体育観を基にして武術からスポーツに変化させていった<。>
ここでいうスポーツというのは競技や娯楽のための運動という意味<だ>。・・・
つまり、この段階で実戦的な練習は禁止されたと言ってもいい・・・
徒手格闘の軍事技術としての性質が濃厚に存在していた。
昔の武術というのは武装秘密結社が秘密裏に教えていたものであったため
武術自体が危険視されていた可能性は高い。」
https://trivia-and-know-how-notes.com/is-chinese-martial-arts-weak/
実際、義和団の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
の時の義和拳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E6%8B%B3
の記憶は我々にも新しい。
要するに、中共の拳法政策は、それまでの支那の歴代統一王朝における中央政府の火器以上の武器の独占政策を更に厳格化し、中央政府以外の、実力行使手段を完全に奪ったものだと言えそうだ。
その成果はまさに完璧だと言えるのかもしれない。↓
「西洋格闘技に20秒で惨敗した中国伝統武術・・・」
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/101059/051000099/
(続く)