太田述正コラム#14088(2024.3.13)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その26)>(2024.6.8公開)
「・・・1368年の明朝成立は、・・・一大画期を示すものだった。・・・
南方から興って「天下」を統一する王朝政権が出現したのは、史上はじめてのこと<だったからだ>。・・・
しか<も>明朝がモンゴルを北に追い返して以後も、南北の統合は動かず、もはや以前のような二分を経験することはなかった。・・・
明の太祖・・・朱元璋・・・は・・・蘇州を中心とする穀倉の江南デルタを征服し、苛烈なリゴリズムに徹して、農民を土地に縛りつけ、横暴な地主を弾圧し、専横な大臣・高官を粛正した。
次代もかわらない。
⇒「洪武帝の死後、孫の朱允炆が即位して建文帝となった。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には靖難の変で建文帝と四男の朱棣が戦うことになる。洪武帝は家臣には異常な程猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった。戦術に長けていた功臣は既に殺し尽くされていたので、朝廷軍は二流の将軍しか持たず、[<他方>、燕王軍は漠北で明朝に対峙するタタール(北元)とたびたび戦ってきた実戦経験豊かな朱棣自身が指揮を取ったの<で、>]結局建文帝は敗北し、朱棣が即位して永楽帝となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%96%87%E5%B8%9D ([]内)
というわけですが、宋も明も、初代が2代目への継承に失敗しています。
そんな、宋や明が長く続いた方が不思議なのであって、私は、どちらも、最初から死に体だったのが、僥倖に恵まれ続けてすぐには倒れなかったに過ぎない、と、見ています。(太田)
息子の永楽帝も、帝位簒奪にあたって、北京を本拠に江南人の政権を打倒し、あらためて虐殺をくりかえした。・・・
⇒「虐殺」が何を指しているのか、必ずしも明らかではありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D
ちなみに、帝位簒奪をされた側の建文帝(注39)は、行方不明のままです。(太田)
(注39)1377~1402年?。「洪武帝の長男で皇太子であった朱標(懿文太子・興宗)の次男として生まれた。生母は朱標の側室の呂氏。洪武25年(1392年)、父の朱標が死去したため、皇太孫に立てられた。洪武31年(1398年)、祖父の崩御により第2代皇帝に即位した。・・・
永楽帝となった朱棣は自らの簒奪を隠蔽するために建文帝の即位の事実を抹消し、建文の年号もなかったことにした。その後、明が終わるまで建文帝の正統議論は消えることが無かったが、結局明朝には建文帝の名誉は復活しなかった。年号のみは、万暦帝によって万暦23年(1595年)に復活された。清の乾隆帝の時期に、恭閔恵皇帝と追諡され、ようやく明の正統皇帝として認められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%96%87%E5%B8%9D
江南デルタは14世紀末から15世紀初にわたって、このように政府権力の過酷な圧制を受け、政治的なヘゲモニーをまったく喪失した。
そして以後、あからさまな反抗・敵意を示さなくなる。
しかしそれは必ずしも屈服を意味しない。・・・
その初期の、かつ象徴的なものとしては、南宋の時代に草創し、体制教学の正統にのぼりつめた朱子学にほかならない。・・・」(108~109、131~133)
⇒朱熹(1130~1200年)が、南宋時代に現在の福建省に生まれた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E7%86%B9
ことは確かですが・・。
その思想に江南文化性があるかどうかが問題です。(太田)
(続く)