太田述正コラム#14092(2024.3.15)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その28)>(2024.6.10公開)

「個々人ひとり一人の立場からすれば、職業身分としてそれぞれ孤立したばかりか、公権力の法的な介入・保障・保護も事実上、期待できない。
 いわば野放しの、激烈な自由競争である。
 そのため自身にしても家族にしても、安住の獲得、勢威の拡大とリスクの分散をはかるには、他人は信用できず、自らの戦略・技倆・縁故に頼るほかはない。
 必要があれば、居処も他地に遷したし、家庭も離合集散、常なかった。
 身分・業種ごとに鞏固な団体を結成する前提の条件・動機を欠いていたのである。・・・

⇒著者は、妄想を膨らませる一方です。(太田)

そんな社会の下層<には、>・・・故郷・本籍からはみ出す人々がおびただしく存在した。
 そんなあぶれもの・落伍者でも、潜りこんで生息できる余地・間隙を提供するのが都市である。
 糊口をしのぐだけなら「就職先」は決して少なくはなかった。
 「いい鉄は釘にならない、いい人は兵にならない」<(注41)>、人間のクズの集まる軍隊に入る道もあったし、官吏の使い走り・富商の使用人になってもよい。

 (注41)「好鉄不打釘、好人不当兵」
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2013/01/post-934b.html
、すなわち、「「好漢は兵にならず,良い鉄は釘として打たれない(釘にはならない)」という類いのことわざが,いつの間にか兵士の身分と社会的地位を確定していた.宋朝・・・以後,「重文軽武(訳注-文を重んじて武を軽んじる)」という風潮が作り出され,明清の二王朝ではさらに顕著になった.いわゆる「文官は口を動かすが,武官は足であちこち動き回る(訳注-文官は頭脳労働をするが,武官は肉体労働をするものだという通念を表現したことわざで『孟子』にあるように頭脳労働者が上位)」,「総兵(訳注-清代の武官で,緑営を統率する)の幕舎の前には知県(訳注-県の長官で,県は州・庁とともに行政機構の基底をなす)はいないが,県官(知県)の随員には総兵がいる(訳注-知県は文官であり,武官の総兵よりも地位的に優位にあることを示すことわざ)」である.まだ幼年で道理を解さない児童といえども,口伝いに朗誦することができるのだ.良家の子弟はみな,兵士になるのは恥ずべきことだと思い,かれらは一生涯,士となり,農となり,工となり,商となることを願うが,武人になり,武官となることを軽視して潔しとはしなかったのである.」(細井和彦「翻訳:楊杰著『国防新論』(十) 第三編 如何にして中国の国防を建設するのか」より)
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⇒「中国のあらゆる伝統も因習も含めた、すべての秩序を破壊し、中国を統一する新たなシステムを作り上げたのが毛沢東と文化大革命というのが、・・・劉建輝・・・先生の説。八路軍以後<、>軍人の地位は「人間のクズ」から脱却しただけではなく、「中国人民あこがれの存在」に転化した、と見て良いとのお話だった。昨年<(2012年)>ノーベル文学賞を人民解放軍の作家莫言<(注42)>が取ったけれども、これは 好鉄不打鉄、好人不当兵 という「中国文化人幻想」が完全に息の根を止められた瞬間でもあった。」
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2013/01/post-934b.html
は、そんなものかと思いますが、肝心の「好鉄不打鉄、好人不当兵」の出所が「注41」を見て分かるように、明らかではないのは困ったことです。(太田)

 (注41)「文化大革命で小学校中退を余儀なくされ、1976年人民解放軍に入隊、1982年には将校に抜擢され、1984年解放軍芸術学院文学部に合格。在籍しながら執筆活動をはじめ、1985年の『透明な人参』で作家デビューを果たす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%AB%E8%A8%80

 藝を磨いて優人(ゆうじん)・遊妓などで食べてゆく手もあろう。
 土木工事や運送業、あるいは汲み取りにいたるまで、単純労働でも求人はあった。」(137~138、142)

(続く)