太田述正コラム#14096(2024.3.17)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その30)>(2024.6.12公開)
「・・・紳士が郷里にとどまること自体、任官拒否なのだから、決して政権に従順ではない不信の表明ではあった。・・・
そんな暗黙の不信・矛盾は、しばしば顕在化する。
その典型がたとえば、いわゆる「倭寇」だった。
政権は民間経済の運転に欠かせない海外貿易を制限統制していたから、郷紳がリードした江南の経済界は、当局の規制に逆らって、貿易業者をむしろ積極的に受け入れ、大きな騒擾をひきおこす。
「倭寇」はこのように、海外から銀を注入する役割を果たしていた以上、地域間分業の形成という大きな経済変動にも不可分な動向ではあった。
だとすれば、江南の郷紳たちのプレゼンスとレジスタンスも、東アジア全体の変貌、ひいては世界史の展開に大きく寄与していたわけである。・・・
⇒倭寇一般ではなく、後期倭寇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87
と書いて欲しかったところ、このくだりは、慧眼の指摘だと思います。(太田)
蘇州・江南の人士は・・・、自分に確乎たる理念信念、主義主張などがありながら、長いものに巻かれる、世情に迎合しがちな行動様式が勝ってきた。
言行の不一致という現象・風潮が支配する。・・・
愚直にして直情径行の日本人に理解しがたい中国人の複雑さ狡猾さ老獪さは、このあたりからはじまるといえなくもない。
⇒著者は支那人しか見ていませんが、私自身の経験や知識を踏まえて申し上げれば、これは、支那人を含む、普通人一般の、自分が属する一族郎党以外の人々に対するところの、ごくありふれた普通の行動様式なのです。
それは、「複雑・・・狡猾・・・老獪」なのではなく、国が扶助も公的サービスも碌に提供してくれない、リスクに満ち満ちた環境下で自分の利益を確保するためにとらざるを得ないところの、極めて合理的な行動様式なのです。(太田)
そしてここに、陽明学が生まれる背景も存した。
陽明学は江南の浙江出身の王守仁(王陽明)が16世紀のはじめに創始し、「知行合一」「万物一体」など、体制教学だった朱子学の理気二元論・二分原理を批判する教理をもつ。
当時の現実はとかく言行不一致の政治・社会であった。
知識人エリートたちは官僚にせよ郷紳にせよ、高尚なことを口にしながら、一切の行動は不義横暴・不正貪婪。
決して珍しくないこうした言動を、朱子学が提唱勧奨していたわけではなかった。
しかし理論と実践を分けるその思想が、言行背馳をまったく助長していなかったともいえない。
言行の不一致はけだし流動性を強め、分化、重層化してきた当時の社会の一面を露呈したものである。
陽明学の「心即理」「知行合一」はそんな風潮に対するアンチテーゼであって、悪しき世相を反省批判するエリート・庶民の意向に応じた。
陽明学の流布はそうして出発する。
もっとも陽明学は当時、流布という以上に、いわが熱狂的に迎えられ、急速に広がっていった。・・・」(147、149~150)
⇒著者は、同じく江南生まれの朱子学が江南の実態にそぐわなくなり、陽明学が生まれた、と、主張しているようにも受け取れますが、やはり、マルクス主義史観の母斑がくっきりと・・。
とまれ、そんな朱子学が長く、全国で、つまりは中原において、ももてはやされ、そんな陽明学が、一時期とはいえ、全国で、つまりは中原において、も朱子学を脅かすほどもてはやされたのはどうしてなのかを、著者は果たして説明してくれるのでしょうか。(太田)
(続く)