太田述正コラム#14102(2024.3.20)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その33)>(2024.6.15公開)


[李卓吾]

 1527~1602年。「泉州府晋江県に生まれた。当時、明世宗嘉靖帝の治世は「北虜南倭」に悩まされる時代であった。・・・
 26歳の時に郷試に合格したが進士とはならず地方官を歴任した。40代は北京・南京で官界生活を送り、54歳で官を退いた。その後麻城県龍湖にある芝仏院に落ち着き、そこで読書と著述に励んだ。官職から退いた後は、友人の経済的な援助を支えに生活していたという。李卓吾の代表作のほとんどはこの芝仏院時期のものであ<る。>・・・
 李卓吾思想の真髄は童心説にある。「童」が童子、赤ん坊と言う意味であり、人間が生まれたままの自然状態である。「童心」とは偽りのない純真無垢な心、真心を言う。これは陽明学の「良知」を発展させた先に李卓吾が到達したものである。李卓吾によれば、誰もが持つこの「童心」は人間が成長して社会生活を営み、文明化されるにつれて、道理や見聞、知識を得るなど外からもたらされるものによって曇らされ、失われるという。
 この思想が危険視されるのは、当時正統イデオロギーとなっていた朱子学における聖人に至る道を否定している点にある。朱子学では心を性と情に分かち性こそ理とする「性即理」をテーゼとするが、性を発露するために読書などによって研鑽を積まねばならないとする。しかるに李卓吾はそのように多くの書物を読んで道理や見聞を得ると言う研鑽そのものが「童心」を失わせるとして排し、否定的に捉えるのである。そして「童心」を失った者が成す文や行動がいかに巧みであろうと仮(にせ)であって、真なるものでは無いとする。
 李卓吾が仮(にせ)、端的に言えば偽善者と非難する具体的な対象は士大夫たちである。彼が生きた明代は『金瓶梅』が書かれたり、著名な詩人がひいきの妓女のくつをお猪口にして持ち歩いたりする行動に見られるように文化爛熟あるいは退廃の時代といえるのであるが、その支配イデオロギーは儒教の中でも特にリゴリズム(厳格主義)の傾向が強い朱子学であった。すなわち士大夫は口を開けば「仁義」といった立派なことをいうが、実際の行動はそれに伴っていないことがままあったのである。こうしたダブルスタンダードに対し李卓吾は激しく反発し、士大夫やその価値観を激しく痛罵したのである。・・・
 李卓吾は孔子の是非の判断も現在の基準とはならず、各人は自己の是非の基準を持つべきだとしている。李卓吾は戯曲や小説にも「童心」の発露を認めて、詩文と俗文学の価値を同等のものとした。・・・
 李卓吾は儒教・仏教・道教の三教の融合を唱えていた・・・
 <また、>イエズス会のマテオ・リッチと邂逅し<、>・・・キリスト教に一定の理解を示した<。>・・・
 李卓吾への批判はその思想だけでなく生活習慣(僧形となったこと、剃髪、極度の潔癖症であったこと、女性にも学問を講義したこと)にまで及び、彼を悩ますことになる。62歳の時に落髪出家(剃髪)を行ったとされる。李卓吾自身は、儒書をまとめた『初潭集』を編集するなど儒者の精神を捨てたわけではなかったが、世間で剃髪は”世俗との訣別、儒者の放棄”と受け取られる行為として、役人などからも大きく批判され、迫害や逮捕につながるものとなった。また李卓吾への批判はその思想の特異性のみならず、彼の性格に拠るところも大きい。自ら狷介・偏狭と述べ憚らず、世と相容れないこと甚だしかった。・・・
 獄中で自殺。享年76。・・・
 本居宣長も、李卓吾の提唱した「童心」と似た思想を展開している。本居宣長は「道」の根本的な意味が「真心」にあり、それは童心と同じように成長する過程で得る知識や学習などにより失ってしまうと言う。この真心も童心も、共に過ごし「生まれつき」「自然な状態」を強調している。本居宣長の「内なる自然」として人間の私欲を容認していると言う点は李卓吾の思想に通じる所がある。・・・
 野山獄中に於いて李卓吾の『焚書』を読んで非常に感激したという吉田松陰は李卓吾に深い思い入れを持っていた。吉田松陰は獄死する一年ほど前から李卓吾に関心を寄せ、彼が中国の史書から言葉を抜き出したというノートには李卓吾に関係するもの(『焚書』や『続蔵書』など)が多く残され、その印象を入江杉蔵や品川弥二郎をはじめとする多くの門下生へと書き送ったという。『焚書』の抄録については、これを形見として残し実読を勧める旨記された書簡とともに高杉晋作に届けるよう久坂玄瑞に命じたことが知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%8D%93%E5%90%BE
 泉州府晋江県は現在の福建省にあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B%E6%B1%9F%E5%B8%82

⇒「明<は、永楽帝当時とは打って変わって>・・・海禁政策をとっ<てい>た<ところ、>唯一日本<だけ>は勘合を用いた朝貢貿易(日明貿易)を許されていたが、これも1523年の寧波の乱によって破滅的な終焉を迎えた。またまったく同時期には、南方から進出してきたポルトガル人が九龍半島の屯門を占拠する事件(西草湾の戦い)が発生するなどして、<支那>沿海は秩序を失い始めていた。
 明政府が対外貿易を取りやめたため、日明貿易に従事していた海商は大打撃を受け、海賊化した。こうして登場した後期倭寇は、日本人ばかりによるものではなく、むしろ王直のような<支那>人が主であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%99%9C%E5%8D%97%E5%80%AD
といった倭寇問題、や、慶長文禄の役、といったことを通じ、役人生活も長かった李卓吾が、日本に強い関心を持たざるを得なかった上に、日本の為政者達同様、ポルトガル/キリスト教とも取り組まざるを得なかった、ということもあり、日本に造詣が深くなった、としても不思議ではない。
 「李卓吾は儒教・仏教・道教の三教の融合を唱えていた」というが、これは、彼が、日本では儒教・仏教・神道の三教が融合している、と、マテオ・リッチ等のイエズス会員から聞き、それをヒントにした可能性を、あながち、と否定できないのではなかろうか。
 「童心」についても、程顥の「万物一体の仁」(後出)をベースに、(人間以外の生物や自然の話は捨象しつつ、)リッチ等から日本人(の大部分である縄文人)の国民性を聞き、それもヒントにして、より焦点を絞ったところの意味もより明確なものにした、とも。
 これを吉田松陰は日本に逆輸入したわけだが、本居宣長もまたそうした可能性・・例えば、「もののあはれ」≒「童心」・・は大いにある、と、私は思う。

 一つだけつけ加えると、この李卓吾もまた、軍事に関心を持ったり、日本の弥生性に注目したりした形跡がないのは、李卓吾ですら、統一支那時代が始まって以来の支那知識人の致命的限界を乗り越えられなかったと言うべきか。(太田)