太田述正コラム#14104(2024.3.21)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その34)>(2024.6.16公開)
[万物一体の仁と日本]
李卓吾と日本との関係に思いを致したところ、彼の陽明学、及び朱子学、のその源流の一人である程顥<(ていこう。1032~1085年)>とその万物一体の仁と日本との関係にも思いを致す必要があろう。
「呉越(・・・907年 – 978年)は、中国五代十国時代に現在の杭州市を中心に浙江省と江蘇省の一部を支配した国。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%B6%8A
だが、「呉越は935年にはじめて日本と国交を開いた。翌936年には、藤原忠平が呉越王に書を送り、良好な関係を築こうとした。940年には藤原仲平が、947年に藤原実頼が、953年に藤原師輔も呉越王に書を送った。957年には呉越王が黄金を送った。」(上掲)ということから、その後、宋が960年に建国され
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
てから更に約半世紀後に生まれた程顥が、当時、日本は宋とは私貿易が継続していただけ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%AE%8B%E8%B2%BF%E6%98%93
とは言え、宋の二代目の太宗(939~997年)が、「984年<に、>・・・「島夷(日本、東の島の異民族/蛮族)であると言うのに、彼ら(天皇家)は万世一系であり、その臣下もまた世襲していて絶えていないという。これぞまさしく古の王朝の在り方である。中国は唐李の乱(朱全忠による禅譲)により分裂し、後梁・後周・五代の王朝は、その存続期間が短く・・・、大臣も世襲できる者は少なかった。朕の徳はたとえ太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、大臣の子等に官位を継がせるのが朕の願いである」・・・<と>語った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)
こともあり、日本に関心を抱いていた可能性が大いにある。
だとしたら、そんな程顥が、(そのほぼその全てが漢文で書かれた)『日本書紀』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
、就中、その仁徳天皇に関する部分を読んでいたとしても不思議ではない。
「仁徳天皇<は、>・・・4世紀末から5世紀前半に実在した可能性のある天皇<だが、>・・・即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている。・・・
<しかし、>津田左右吉は、仁徳天皇の仁政記事は、史記の堯・舜・禹の伝説をもとにして書かれたものであり、史実ではないと指摘して、津田事件に発展した。
直木孝次郎も、<支那>の史書をもとに創作された記事で、王朝の初めに聖天子が現れるという思想をもとに書かれたものであり史実ではないとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
「坂靖<もまた、>・・・仁徳天皇<の、この>著名な「民の竈」の逸話は、5世紀にそもそも近畿地方において竈は普及しておらず、この時代の景観を反映した記述でないことは明らかである<、としている>。」
https://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/manabu/online/kodai_matsuwaru_02/
でも、果たしてそうだろうか?
堯、舜の事績には、仁徳天皇の仁政と同様のものはない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9C
では、(仁徳天皇はそうではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
ことだけでも決定的ながら、)支那の「王朝の初め<の>・・・天子」はどうだったのだろうか?
まず、夏朝の創始者とされる「禹は<、>即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、<支那>の内はもとより、外までも朝貢を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B9
次に、「天乙<(湯王)>は<、>夏の最後の桀を追放し夏を滅ぼし・・・たのち七年間も大日照りが続き洛川は枯れてしまった。そこで湯王は桑林まで出かけて神を祀り爪と髪を切り、みずからを犠牲として捧げる心で上帝に祈願した。するとたちまちのうちに大雨が降り国中が潤ったのであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%99
そして、「姫昌(文王)は<、>・・・仁政を行って・・・周・・・の地を豊かにしていた。・・・
あるとき、虞と芮という小国の間で紛争が発生した。両国の君主は紛争の調停を求めて、ともに周国を訪問した。そこで両国の君主が目にしたのは、農民が互いに畦道を譲り合い、若者が老人に道を譲って孝行するという、平和な共同体の姿だった。これを見た両国の君主は、自分たちが争っていたことを恥じ、ついには姫昌に面会することなく帰国し、紛争を止めた。
紂王の暴虐に見切りを付けた諸侯は、次第に姫昌を頼るようになるが、当の姫昌は最期まで決起することなく、諸侯達を引き連れて紂王に降伏し、殷(商)の臣下であり続けた。内緒では姫昌は、そのような仁政と並行して、対外戦争によって版図を広げる。軍師として呂尚(太公望)を迎え、北方遊牧民族の犬戎・密須や、近隣の方国の盂国を立て続けに征伐。晩年には、宿敵である崇侯虎を征伐し、その領地である崇国を併呑した。
姫昌が老齢で没して間もなく、後を継いだ息子の姫発(武王)は父に「文王」と諡し]、諸侯を率いて革命戦争を起こす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)
以上から、彼らの事績には、善政とは言えても、仁政とまで言えるものは見当たらないと言っても過言ではあるまい。
また、「古墳時代後期(6世紀)段階には全国で72.4%、関東地方で90%超の普及率となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%BE%E3%81%A9
ことを踏まえれば、坂靖の主張はいささか揚げ足取り的に過ぎるのではなかろうか。
(続く)