太田述正コラム#14106(2024.3.22)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その35)>(2024.6.17公開)

 他方、仁徳天皇の上記仁政や即位を弟と譲り合ったという話が『日本書紀』に載っており、
https://kodainippon.com/2019/08/06/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%9b%b8%e7%b4%80%e3%83%bb%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%aa%9e%e8%a8%b3%e3%80%8c%e7%ac%ac%e5%8d%81%e4%b8%80%e5%b7%bb%ef%bc%9a%e4%bb%81%e5%be%b3%e5%a4%a9%e7%9a%87%e3%80%8d/
程顥は、その中の、「「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから、人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは、自分が貧しいのと同じである。・・・」という仁徳天皇の言、も目にしていて、儒教に言う聖人の統治を、支那で本当の意味で実践した王や皇帝はいなかったけれど、日本にはいたこと、だからこそ、王統も臣下も万世一系である・・臣下がそうであることの方が重要かも・・ことに改めて深い感銘を受け、その背景にあるものを追求し、唐に留学した空海や円珍や安然が、支那仏教が唱えた「草木国土悉皆成仏」(注46)・・(私の言う)人間主義・・の思想に強い興味を示していたということを聞き及び、それを儒教の言葉に置き換えて主唱したのが、「万物一体の仁」だった、と、私は想像するに至っている。

(注46)「草木国土悉皆成仏<とは、>・・・『涅槃経』で説かれる言葉。草木や国土のような非情なものも,仏性を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく,6世紀頃,<支那>仏教のなかに見出されるが,特に日本で流行した。日本では空海が最初といわれ,次いで天台宗の円珍や安然らによっていわれた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%89%E6%9C%A8%E5%9B%BD%E5%9C%9F%E6%82%89%E7%9A%86%E6%88%90%E4%BB%8F-89720
 (私は、「この思想はインドにはなく」は誤りだと思う。(次回オフ会「講演」原稿参照。))

 程顥の思考過程は以下のようなものであったのではなかろうか。
 彼は、「老荘や仏教に惹かれたが再び六経の研究に戻<り、>・・・26歳で進士に合格し、38歳頃に中央官庁の役人になったが王安石と意見が合わず、その後は鄠・上元・沢州・汝州などの地方官として過ごした。・・・
周時代の文王の「民を視ること傷むが如し」という精神を座右の銘として、誠によって民を感化することを政治の要訣と考えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E9%A1%A5 前掲
という人物だが、彼は、官僚であった時に、新旧党争(1069年~)において、司馬光、蘇軾・蘇鉄らと共に旧法党の一員として王安石の新法党と党争を繰り広げたものの、「経済の発展とともに台頭してきた兼并(大地主・大商人)とその下で苦しむ客戸の格差も社会問題となっており、小作人である佃戸に対しては農地に課せられた税の他に水利権や農牛、農具、種籾の使用料に対して10割前後の利息を取っていた。また、自作農に対しても水利権や農牛、農具、種籾の用意を兼并が貸付として行い、それに対して4割という利息を取り立てる事もあった。これが払えなくなると土地を取り上げられてしまい、地主はますます土地を増やすことになる。また塩商たちも畦戸に対して同じことを行っていた。政治の主要な担い手である士大夫層は、多くがこの<兼并>層の出身であり、科挙を通過したものは官戸と呼ばれ、職役が免除されるなどの特権が与えられていた。これにより更に財産を積み上げるという状態であった。」ところ、旧法党は客観的には兼并の利益を代弁し<て>いたのに対し、新法党も「最終的には地主や商人・役人達などが、・・・新法を私腹を肥やす道具として勝手に利用し始め、統制の取れなくなった宋の社会は破滅に向かっていく」ことを許してしまい、結局、1126年に、「金により・・・、北宋<は>滅ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B3%95%E3%83%BB%E6%97%A7%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84
という経過を辿る新旧党争のただ中に亡くなるけれど、王安石や自分自身を例外として(?)、支那の官僚(家臣)の非人間主義性に程顥は辟易し、太宗の日本評を思い出し、自分が若い時に身に着けた仏教の素養を活かして、日本人の人間主義性を、彼の言葉で「万物一体の仁」と名付け、その支那での普及を図ろうとした。
 いかがだろうか。

(続く)