太田述正コラム#14108(2024.3.23)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その36)>(2024.6.18公開)

 ところで、本題からはずれるが、新旧党争はどうして非生産的な結果に終わったのだろうか。
 話が出てきたばかりの、皇帝や臣下の「人間主義/万物一体の仁」性の欠如が故、で決まりのはずでは?
 いや、私は、むしろ、皇帝や臣下の弥生性の欠如の方が原因としては大きいと考えている。
 当時、北宋は既に存続の危機に直面していた。
 すなわち、北宋は、「1038年・・・にタングートの李元昊が皇帝に即位し、国号を夏(西夏)と称した。これを認めない宋は西夏との間で交戦状態に入った。戦争は長引き、それに乗じて先立っての澶淵の盟で宋と和約を結んでいた遼(当時の国号は「契丹」)が領土割譲を求めてきた。これを受け入れるわけにいかない宋は遼に対して送っていた歳幣の額を増やすことでこれを収め、西夏とも、西夏が宋に対して臣従し、宋から西夏に対して歳賜を送ることで和平を結んだ。」(上掲)という、主権制限の状態・・財政に外から巨大な穴を開けられた状態・・に追い込まれていたところ、「和平が結ばれても、国境に配置する兵士を減らせるわけではなく、この維持費が莫大なものとなった<こともあり、>・・・次第に財政が悪化し、英宗時代[(1063~1067年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%AE%97_(%E5%AE%8B) ]に<ついに>赤字に転落し<てい>た」(上掲)からだ。
 この苦境を打開するためには、少なくとも遼(契丹)と西夏から主権を完全回復するために必要な軍事力を整備する計画を立てた上で、国内経済の振興策を採って財政の改善を図ることが必要不可欠だったわけだが、王安石(新党)の「軍事力整備計画」は、「保甲法(ほこうほう)<:>1070年・・・12月施行。弱体化した軍隊と郷村制の再編を目的とした法。10戸を1保、5保を1大保、10大保を1都保とし、保の中では互いに犯罪監視を行わせ、犯罪が起きた場合には共同責任とする。保の中で簡単な軍事訓練を行わせ、民兵とし、これを以て治安維持のための農村組織とした。保馬法(ほばほう)<:>1072年・・・5月施行。それまで政府の牧場で行ってきた馬の飼育を戸1つに1頭、財力のある戸には2頭ずつ委託する。委託された馬を損なった場合には補償の責任を負うが、その代わり委託されている戸には免税がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B3%95%E3%83%BB%E6%97%A7%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84  
という、軍事力整備計画ならぬ警察力整備計画で、しかも、みみっちいそれ、でしかなかったのだから、新法党(王安石)の新政策は、目的において既に誤っている以上、手段を詮索してみても不毛であると言わざるを得ないし、この核心点を突かなかった(上掲)以上、旧法党の新法党批判なるものは、ことごとく新法党に対する憎悪からくる言いがかりに毛が生えた程度でしかないナンセンスであった、と切り捨てられるべきだろう。
 このように考えてくれば、その後の支那におけるところの、「南宋では、程顥・程頤兄弟の流れを汲む道学派が主導権を握ったことで、王安石を初めとする新法党こそ北宋滅亡の原因であるとされ、それに抵抗した旧法党の人々は英雄扱いを受けることになった。道学を学び、朱子学を興すことになる朱熹も王安石を厳しく批判している。
 その一方、・・・南宋の政治は新法を受け継いだものが少なくない。・・・
 『宋史』では蔡確・呂惠卿・章惇・曾布などは蔡京と同じ「姦臣伝」に入れられてしまっている。王安石は唐宋八大家としての文名があったために姦臣伝に入れられることこそ免れたものの、北宋滅亡の最大の責任者とされ、後世の演劇などでも「拗ね者大臣」と揶揄されるようになる。

 だが、清代の蔡上翔の『王荊公年賦考略』・梁啓超による『王安石評伝』の論文が発表されたことで王安石に対する見直しが図られ、中華人民共和国で唯物史観が主流になると、王安石は「果敢な政治改革を試みるも頑迷固陋な旧体制派に阻まれた悲劇の政治家」、逆に司馬光らは「地主・商人と癒着した封建的な旧体制そのもの」となった。」(上掲)といった新党(王安石)評価は、ことごとく正鵠を射ていないことになろう。

(続く)