太田述正コラム#14110(2024.3.24)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その37)>(2024.6.19公開)
「・・・顧炎武<(注47)は、>・・・李卓吾の逝去からおよそ10年後、蘇州崑山(ござん)県に生まれ、ほぼ生涯、官途につかなかった。・・・
(注47)こえんぶ(1613~1682年)。「明末の東林党の流れを引き継ぐ政治結社復社に参加していた。順治元年(1644年)に李自成によって明が滅び、清が中国本土に侵入してくると郷里の子弟を組織して義勇軍を結成して清朝支配に抵抗して、各地を流浪しては反清の活動に積極的に携わっていた。
各地を流浪するにあたり、一緒に共する馬に書物を満載しながら文献と照らし合わせた実地調査を行い、地理や歴史の研究に勤しんだ。また、経学・訓詁学・音韻学・金石学などにも精通していた。その上で、陽明学を批判し、世に有益な経世致用<(前出)>の学を追究した。・・・
代表的著作といわれる『日知録』は一見すると随筆を寄せ集めた文集である。しかしその論ずるところは多岐にわたり、中でも歴史に関する箇所は明代の政治経済や社会について鋭い見解を示しており、そのまま現実に対する批判と提議へとつながっている。そして各項目とも事実についてただ論じ批評するのではなく、十分な考証を行った上でその議論を行っている。もっとも、その書が世間に公開されたのは彼の没後であり、清代の考証学者たちは彼の実証主義的な手法を専ら採り入れることとなる。
この他、<支那>各地の地学・特徴・軍事などのあらゆる点を論じた『天下郡国利病書』や、音韻学について述べた『音学五書』などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E7%82%8E%E6%AD%A6
⇒しかし、(文字通り亡国に直面した明の顧炎武が軍事を論じたのは当たり前ですが、)東林学派にせよ考証学者にせよ、「経世致用・・・の理念にのっとり,・・・学生に・・・軍事を教え<たのは、存続が問われるほどの外からの脅威に常に晒されていた宋においてさえ、北>宋の胡瑗<(注47)(こえん)>」
https://kotobank.jp/word/%E7%B5%8C%E4%B8%96%E8%87%B4%E7%94%A8-58986
くらいだったようですから、「経世致用」そのものが、最初から、いかに空理空論であったか、ということでしょう。(太田)
(注47)993~1059年。「<現在の江蘇省の>泰州海陵県の出身。・・・保寧軍節度使として湖州で子弟数百人に教授した。慶暦年間に太学を興した時には、胡瑗が湖州で制定した法を採用したほど、影響力があった。皇祐年間に太常鐘声を更新し、楽事を定めて大理寺丞となる。その後は太学で教授し、礼部官僚の半数が胡瑗の弟子であったと伝えられる。嘉祐元年(1056年)、太子中允天章閣侍講に選ばれ、病のため太常博士として退官する。・・・
主として明体達用の学を唱え、性命の説を述べ、孫復とともに朱子学の先駆をなした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E7%91%97
その学識・言動のペースは、ほかならぬ地元の江南社会にあったから、その身分・立場・意識は郷紳だったといってよい。
朱子学・陽明学のような、空理空論の経典解釈では不可であって、儒教が成形化した漢王朝時代のオリジナルな原義をつきとめてみなおさねばならぬ、と実証主義<の>考証学=漢学<(注48)>・・・を提唱実践し、数々の名著を遺した。
(注48)「宋学に対する称。漢代の学問、学風を意味し、とくに後漢、魏晋の経学の態度をさす。<支那>近世の新儒学として、程朱学、陽明学が宋・元・明の性理学を代表したのに対して、清代におこった考証学によって、復古的に唱道された学術の方法である。顧炎武、閻若璩(えんじゃくきょ)、胡渭(こい)らがその先駆的業績をあげ、呉派の恵棟(けいとう)、江声(こうせい)らによって、経書本来の精神は、漢儒の経学によって解明できる、とする自覚が高まり、皖(かん)派の戴震(たいしん)、段玉裁(だんぎょくさい)、王念孫(おうねんそん)らによって高度の学術成果を発揮した。その学問は、『十三経注疏(じゅうさんぎょうちゅうそ)』を主材として、史書、諸子(先秦の思想家)の文献にも及び、漢~唐の訓詁(くんこ)を重んじ、校勘(こうかん)、考証を盛り込んだノート(札記(さっき))と研究者間の書信による交流を積み重ねて、許(きょ)学と鄭(てい)学、つまり許慎の『説文(せつもん)解字』を基礎とする古代言語学と「三礼(さんらい)」を軸とする鄭玄(じょうげん)の経書解釈学の、復活とその応用を究めた。旧<支那>の実事求是(じつじきゅうぜ)の学、すなわち類推と帰納の蓄積による実証的な真理探究の学問は、この清代漢学の方法によって代表された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BC%A2%E5%AD%A6-48496
⇒考証学の大前提であるところの、「経書本来の精神」は、孔子や孟子の言動を記録した諸文献によってではなく、「漢儒の経学によって解明できる」、とする「自覚」、は妄想としか形容の仕様がありません。
それだけで、私は、考証学者は誰であれ、全く評価できません。(太田)
そうした学術上の関心は、現実の課題と向き合った「経世致用」にある。・・・
地方自治・分権をとなえ、旧来の王朝政治・専制体制を批判し、国民国家・民主制の建設も視野に入るようなプランすら示した。
このように顧炎武の学術・思想は「近代思惟」にみまがう。・・・
ところが顧炎武は、孔子・聖人に背いたとして李卓吾を徹底的に非難し、講学を空疎・虚妄として陽明学のありようを全面的に否定した。
体制変革の構想を主張しながら、旧来の体制教学を遵奉したのである。
江南・蘇州人の顧炎武が露呈したこの「矛盾」こそ、「近代思惟の挫折」というにふさわしい。
井上進は顧炎武のテーゼを「明末江南地方の主張そのもの」と断じながら、「南に向おうとして北に行くような、何とも奇妙な矛盾がある」と巧みに表現した。・・・」(154~155)
⇒考証学の大前提からして非科学的なのですから、顧炎武の李卓吾批判を含め、考証学者達の「テーゼ」に矛盾などないのであって、要は、その「テーゼ」ことごとくが非科学的、つまりは非近代的な代物だった、と、言ってよいでしょう。(太田)
(続く)