太田述正コラム#14112(2024.3.25)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その38)>(2024.6.20公開)
「<さて、>経済が発展して人口が稠密になったのは、東の沿海地域である・・・。
西の内陸と大きな格差が生じた。
<他方で、>空間的な南北の平準化<が進行した。>
<これは>とりもなおさず東西格差の拡大を意味する。
北京–江南ラインはその先進的な東方に位置したがために、枢軸となりえた。
ところが、・・・北京も蘇州も政治・経済の中枢でありながら、富をもたらす海外貿易に自らアクセスする機能を有さなかった。
そこで沿海・海濱の地域に目を向けなければならない。・・・
シナ海沿海がこのように隔絶したのは、まず地形による。
分水嶺で別水系をなし、黄河・長江の流域に背を向け海に開けた地勢だった。
住地も狭隘で、独自の勢力を形成しにくい。・・・
<また、>近接した広闊な長江流域諸国のように、自発的・積極的に結合、分離するベクトル・意欲・実力を、この地は有さなかった。・・・
宋は北・西に隣接した強大な軍事政権に陸上の貿易を制せられたので、海外貿易に着目せざるをえなかった。
財政上の比重も増し、南宋<で>は・・・全歳入の5%を占めたほどであった。・・・ クビライ政権以後のモンゴル帝国は、海洋進出に力を入れた。
日本の蒙古襲来や東南アジアへの出兵も、その一環である。
そうした事業は福建・広東に根を張っていた蒲寿庚<(注49)>らアラブ海商に、いっそうの活動の場を提供した。・・・
(注49)ほじゅこう(?~?年)。「南宋末から元初期の商人、軍人、政治家。アラブ系(またはペルシア系)イスラム教徒、元代の「色目人官僚」の嚆矢ともいえる人物。・・・
泉州において貿易商として財を成し、地域の有力者として頭角を表す。朝廷にその実力を認められ、招撫使に任じられ福建水軍の司令官となる。
1276年南宋末期の動乱時、端宗を奉じた宰相陳宜中らを中心とする南宋首脳部は蒲寿庚の財力、軍事力を頼り、福州から泉州への遷都を計画したが、この時、元に寝返って南宋に叛旗を翻した。投降の際、泉州城内の宋の宗室を処刑し、元に忠誠を誓った。
本来、出自が騎馬民族である元は水戦を苦手としていたが、蒲寿庚の投降により水軍勢力を強化し、南宋の亡命政府を崖山に追い詰め滅ぼした(崖山の戦い)。元代に入っても引き続き重用され、泉州を当時中国最大級の貿易港へと発展させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E5%AF%BF%E5%BA%9A
「福州<は、>・・・<現在、>福建省首都<。>・・・明清代には琉球館が設置され、琉球王国との交易指定港であった。歴史上、閩<(びん)>越、閩、南宋、南明、中華共和国の5つの政権の首都として、福州は『五朝古都』と称されている。・・・
新石器時代からこの地に住む閩人の領域で、戦国時代中期に越が楚に滅ぼされ、越人が多く閩地に流入し、閩越と呼ばれるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B7%9E%E5%B8%82
<イブン・バットゥータや>マルコ・ポーロ・・・も、・・・泉州<(注50)>(ザイトゥン)を訪れ、<その繁栄ぶりを>特筆称賛している。・・・」(157~158、162、182、184)
(注50)せんしゅう。「福建省<で、福州の南に>位置する<。>・・・「陶磁の道(海のシルクロード)」の拠点として漢人のほかにもアラブ人やペルシャ人などが居住する国際都市として発展し、『アラビアンナイト』にも「船乗りシンドバッド」の住む舞台として登場する<。>・・・
明代(1368年-1644年)には海岸線の後退に伴い港湾都市としての機能が失われ、海上交易の中心地は長楽や廈門などに移行していった。一方で、永楽帝の治世の頃から、鄭和が当時南洋と呼ばれた東南アジアの呂宋国(現フィリピン)、マジャパヒト王国(現インドネシア)、マラッカ王国(現マレーシア)との貿易を海賊から保護したため、南洋へ労働者として赴き、華僑、華人となった人も多くでた(南洋貿易)。泉州は琉球からの貿易船の指定港でもあり、商館「来遠駅(泉州琉球館)」があったが、1472年に福州に移った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%B7%9E%E5%B8%82
「マジャパヒト王国・・・は、1293年から1478年までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いたとの説があるが一方で、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%92%E3%83%88%E7%8E%8B%E5%9B%BD
「マラッカ王国(・・・Malacca Sultanate・・・)は、15世紀から16世紀初頭にかけてマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家(1402年 – 1511年)。漢籍史料では満剌加と表記される。・・・マレー半島という交易において重要な位置に立地していたことが国家の形成に多大な影響を与え、香料貿易の中継港としてインド、中東からイスラム商船が多数来航し、東南アジアにおけるイスラム布教の拠点ともなった。
当初から・・・明王朝の忠実な朝貢国であり、同時期に交易国家として繁栄した琉球王国とも通好があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E7%8E%8B%E5%9B%BD
⇒呂宋国の存在は言い伝えに過ぎないので、単に、ルソン島とすべき
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%B3%B6
でしょう。(太田)
(続く)